「あれ、ノックス先生いらしたんですか?」
 隣接する倉庫からカルテらしきものを抱えて出てきた若いナースマンが、開け放していたドアから声をかけてきた。



 ノックスは普段は末期患者や軍のお偉方を相手にしているか、グループで病症について研究しているため、普通の患者の診察は基本的に行わない。そしてこの病院は少し特殊で、急患でもなければ『普通の患者』なんて人は運ばれて来ないし、急患には急患担当の医師もいる。

 そういうことで、大抵ノックスはこの奥まった所で仕事をしていることになる。最近はロイ・マスタングが指揮を取っていた反政府組織解体の件で駆り出されていた。

 『指揮を取っていた』というのが過去形なのは、一応責任者がロイではあるが、現在はマース・ヒューズの所属するチームが中心となって事後確認と立件のための証拠及び情報収集を進めているからだ。
 当然ロイにも報告はなされるが、現場を仕切るのとは訳が違う。上がってきた書類を元に捜査状況を把握し、次の命令を下している。



 「ラジオを流していらっしゃる時が多いので、気付きませんでした」
 ナースマンが意外だという顔をして言った。ノックスは手を止めて首を鳴らした。
 「ああ、ありゃあ貸し出し中だ。おかげで何だか調子が狂う」

 喫茶店でもなければ仕事中にラジオを流す人間はいないだろう。
 ただし、ノックスは一目置かれているところもあるので、特に注意する人もいないのだ。仕事さえしてくれればと、一人で作業している間は野放しにされている。

 ナースマンは貸し出し相手に興味を持つこともなく、二言三言話すと、丁寧に断って自分の仕事に戻って行った。
 ノックスはふと壁掛け時計に目をやった。
 「……もうすぐ回診か」
 そう呟くと、大きく伸びをした。





 反実仮想  08.5 番外編 ラジオ日和





 ラジオを流しっぱなしにしていたエドワードは、耳に届いた歌に、張り付くようにして眺めていた窓から勢いよく離れた。
 左足のギプスはまだ当分外れない。けれども広いベッドの上を器用にささっと移動して、サイドデスクの上に置いていた、少し古びたラジオのそばに寄って耳を澄ませた。

 エドワードはこの歌が気に入っていた。
 最近流行っているのか、よく流れる。外国の歌らしく、エドワードには何と言っているのかは分からなかった。おそらく歌っているのは二人組みの若い女性。
 外国歌と言っても民謡の類ではなく、けれども哀愁の漂うメロディと透き通るような声が印象的だった。



 この歌を聴くたびに、なぜか錬金術を習っていた時のことがよぎる。

 錬金術を上達させることで生活を保障してくれるという契約は、エドワードが一番最初に習った『等価交換』だった。ほぼ一日中何らかの形で錬金術が生活に組み込まれているということに慣れるまではそう時間は必要なかった。

 エドワードはすぐに錬金術にのめり込んだ。錬金術を上手く使えるようになれば研究員の人が褒めてくれた。前からいた子供達よりもずっと巧みに操り、誰よりもシンプルな陣を描き、リバウンドもなく発動させた。

 もちろんそれに嫉妬する子もいた。けれども喧嘩をする時は錬金術は禁止されていたので、大体は素手の取っ組み合いになった。始めこそ複数対一人で痛い思いもしたが、エドワードは研究員の一人から身を守るすべとして一種の体術を教わると、喧嘩で負けることはなくなった。

 エドワードはその研究員に褒められることが好きだった。何となく、死んだ母を思い出させる人だった。母親もよく、エドワードを褒めてくれた。

 それから、一番仲の良かったアルフォンス。
 アルフォンスはエドワードが建物内で暮らすようになってからずっと後にやってきた子供だった。ちょうどエドワードが十歳くらいの時で、彼も錬金術の才を現した。定期的に行われていたテストでは、ほとんど二人で一番を競っていたようなものだった。



 この歌を聞くと、あの頃の楽しかった思い出がよみがえってくる。
 別に今の状態や環境が不満なわけではない。実際エドワードは死にそうな目にあっていたし、もしあそこで軍の介入がなければ数日後には確実に死んでいただろう。

 それでも、あの場所での暮らしはエドワードの全てと言っても過言ではなかった。

 あの場所で育ち、あの場所で学び、生きていた。
 決して少なくはない友人らに囲まれて。
 ……彼らは誰一人、この世にはいなくなってしまったけれど。

 歌が終盤に差し掛かって、エドワードは堪えきれずにすん、と鼻を鳴らした。
 この歌を聞くたびに、どうしても泣きたくなってしまう。本当は全部放り出して、手放しで思い切り泣き喚きたかった。けれどそんなことをしたら自分を保っていられないような気がして、自分が自分でなくなったまま戻って来れなくなってしまうような気がして、どうしてもできなかった。





 歌が終わって別の曲が流れ始めると、エドワードは再び窓に張り付いた。残念ながらさっきの歌はその日はその後一度も流れなかった。
 そうしてノックスが回診に訪れるまで、エドワードは厳重に鍵のかかった窓に額を押し付けるようにして、リザ達が働いているといった大きな建物を見ていた。

 エドワードの気に入った歌のタイトルがこの国の言葉に訳すと『兄弟』という意味だと知るのは、数日後のやはりラジオの番組内だった。