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何も変わらない。 何かは変わっているけれど、何も変わっていない。 『日常』を取り戻しただけだ。だから……
その後 01
ロイ・マスタングはいつも通り、中央司令部内の執務室にいた。 いつも通りに上等な革張りの椅子に深く腰掛け、いつも通りに副官の正当な小言を聞き流しながら、ペンを走らせる。
何も変わらない。静かな午後だ。うららかな日差しが眠気を誘う。 「昼寝にもってこいだな」と呟くと、すかさず「水でもかぶりますか」と副官が言う。
本気と思われる口調に慌てて拒否の意を伝えるロイの頬には絆創膏が、真っ青な軍服の袖からは包帯が覗いている。座っているから分からないだけで、歩く時には不恰好に足を引きずっている。 ロイだけではない。ホークアイ中佐、ハボック少尉にもちらほらと傷が見える。前線にいたわけではないブレダ少尉、ファルマン准尉、フュリー曹長もまた、似合わない裂傷が認められた。
数日の入院を要したのはロイだけだったが、『戦い』はもう昔のことのようだった。 時間のかかる傷は、それだけ酷かった証拠だ。
ここ数週間はめまぐるしく、忙しいどころではなかった。 結果だけが明確で、過程は曖昧としてはっきりしていない。 それでも確かに、『結果』を、『希望』を手にしたのだった。
やはりいくらやっても一向に片付く気配のない仕事と、その詰め込まれたスケジュールにロイは大きく息を吐いた。 しかし、自分は案外この『日常』を気に入っていることを知っている。
「またっスねー」 タバコをくわえながら、ハボックは新聞に目を落としていた。 「通り魔事件ですか? ……もう三人目、ですよね」 フュリーが顔をしかめた。
最近、中央では通り魔事件が起こっていた。 頻度は不規則だが、被害者は若い女性か子供に限られていた。一月に一人ほど軽症を負わされる者が出ていたのだが、どうもその間隔が短くなってきているようであった。 弱者を狙うタチの悪い犯罪者は依然として捕まっていない。 逃げ足が速いのと、必ず暗がりで犯行に及ぶのとで目撃者もほとんどいなかった。
「早く捕まるとよいのだがね」 被害者をいたわるような珍しいロイの発言に、ただ一人を除いて全員が目をむく。 「こちらに回されると仕事が増えるからですか?」 スケジュールをチェックしながらの冷静な副官。 「それ以外に何がある」 といぶかしむロイに再び全員が減滅する。 その場合時間外まで割く必要がありますね、とリザが言う。
日も傾き始め、窓の外は淡いオレンジでいっぱいだ。 一人、また一人と帰り支度をし、「お先に失礼します」と部屋を出て行った。ロイはそれに軽く応じて、銀時計を取り出す。
05:09
「いいんですか? 大佐。……あいつら大将のこと知らないんスよね」
リザはともかくとして、最後まで残っていたハボックが言った。 あいつら、とはすでに家路に着いたブレダ、ファルマン、フュリーを指しているのだろう。 「時計(それ)、返しに来るんでしょ。軍属じゃなくなったらここの出入りはできない。故郷に戻るんなら、もう顔を合わすこともないかもしれないじゃないスか」
リザは黙っている。ロイはゆっくりと顔を上げた。そして何ともない様子で再びペンを手に取る。 「……どこで知った。しかし先のことは彼らが…」 決めることだ、という言葉はガタンという音で遮られた。ロイとリザが目を向けると、ハボックが水を求める金魚状態で立ち上がっていた。勢いで椅子が倒れたらしい。 その口から信じられないセリフが漏れる。
「……なっ…マジ、なんスか……?」 部屋の空気が三度ほど下がる。シリアスな雰囲気が一転する。 「何だそれはっ! ……適当だったのか貴様」 「いや……大将達について少しは聞かされてましたし。今日はやたらと時間を気にしてたっスから。そういえばあれから大将来てなかったなぁ、と」 もう一度ここに来る理由なんて銀時計(それ)以外思いつかないっスからね。 そこで気付く。
「え、じゃ大将は本当に……!?」 嘘からまことを出したハボックにロイが言い返す。 子供じみた言い争いを始めた二人に今度はリザが額を押さえて息をついた。
「じゃ、俺帰りますよ」 散々言い合いをした後、ハボックは部屋を出て行こうとする。 「もうすぐ来る。ここにいればいいだろう」 「はぁ……いえ、遠慮しときます。多分、気分よく送り出してやれないスから」 こう見えて情に脆いんです。よろしく言っといてください、と手をひらひらと振って、ドアはパタンと閉まった。
「それでは私もお先に」 それまで沈黙していたリザがブラックハヤテ号を呼んで身支度を整え始める。 ロイは少し驚いたように手を止めた。 「君が気を使う必要はない。彼らは『日常』に戻るだけなのだから…」 「だったらそのような顔をなさらないでください。……一度くらい名前を呼んであげたらいかがですか? 二つ名はもう必要ないのですから」 後悔なさらないように、健闘を祈ります。
そうして最後の一人も出て行った。
鋼のが狗を辞めない可能性はない。目的は達成した。留まる理由がない。 これ以上身を危険にさらす必要はない。リゼンブールで静かに暮らせばいい。 二度と会えないわけではない。 しかし、それは建前だ。本音を言えばもう少し……そばに置いておきたい。彼の力になりたい。手離したくない。 彼は自分によく似ている。似ているが故にぶつかることも多かったが、あの騒々しさがなくなるのは……残念だ。……そう、それだけだ。 やたらと広い部屋で一人、食い下がろうとする自分が滑稽だ。
指を組んで、目を伏せる。扉の向こうに人が近付く気配がした。キィと音がして、新しい空気が流れ込む。 ノックもしないでこの部屋に入ってくる不躾(ぶしつけ)な人物は一人しかいない。 そっと、視線を上げる。
「大佐、こんばんは……って、他の人は?」 「帰ったよ」 帰らせたんじゃねぇだろうなぁと言うエドワードに、発つ時は見送りに行くよといつものソファを指す。 「座りたまえ」 エドワードは疑うような顔をしながらもロイの前に立った。ズボンの右ポケットを探って、取り出した。
「はい」
まるで何とも思っていないかのように、軽い調子でロイの目の前に差し出したのは、国家錬金術師の証の銀時計。 掴んでいる手に白い手袋はなく、かつての利き手は今は機械鎧ではない。 彼らは、取り戻したのだ。 全てを、というわけにはいかなかったが。
ロイがそれを受け取ると、エドワードはソファに腰掛ける。左足がカチャリと音を立てた。 「足は、戻せなかったらしいな」 「……アルの魂を錬成した時の代価は、右腕だから」 それで? とエドワードは尋ねた。 「手続きはやっておく。ただし、軍属ではなくなるわけだから、数々の権利は取り上げられ、以後軍施設の利用、立ち入りも禁止される。…ここへの出入りも許可されないから気を付けるように」 分かってるよ、とエドワードは笑った。
「一生会えないわけじゃないし、縁があったらみんなともまた会えるだろ?」 そういう感じで当り障りのない会話が続く。口喧嘩にならずにこんなに喋るのは珍しい。 だから……いつもは口にしないことまで、言ってしまう。あくまでにやりと挑発的にだが。
「……大佐、オレがいなくなったら寂しい?」 「……」 数秒の沈黙の後、ロイがなぜだ? と問う。 「そういう顔してる」 あんた優しすぎるよ、とエドワードが困ったように笑う。
「これから、どうするつもりだね?」 これで終わりにしようとした質問に、エドワードが何が? と返す。 「……この先の身の振り方だよ。リゼンブールに帰るのか? まぁ、故郷が一番……どうした?」 エドワードがしまった、という顔をした。 「……考えて、ない」 ロイが安堵か呆れかを表す前に、エドワードが自己弁護に徹する。
「だって。リゼンブールで暮らすなんて今まで夢みたいなことだったし! 変な話だけど、こんなに早く上手く『戻れる』って思ってなかったんだ。……アルはアルで毎日食べるか騒ぐか寝るかの三つで過ごしてるし……」 照れたように頭を掻く。それが偶然か、意図的かは明らかにする必要はないだろう。
チャンスとは、必ず残されているものである。
ロイが口を開く。あくまでにやりと挑発的にだが。 「では、一つ提案しよう」 ま、聞くだけなら、とエドワードが言う。
「『日常』を楽しんでみては、どうかね?」
ロイ・マスタングはこれ以上ないほどに優しく微笑んだ。
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