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1923年。ドイツ。 先の戦争の敗北により、物資は欠乏し、この国の経済は麻痺し、完全なインフレに陥っていた。 敗戦の代償は多額の賠償金や資本の源である工業地帯の占領、船舶・鉄道車両・石炭などの引き渡しであり、もはや紙幣はただの紙切れになりつつある。
シャンバラを征く者 始
「ですから、ルーマニアへいかがですか?」 カール・ハウスホーファーは言った。 混沌とした雰囲気、色彩のない石畳の通りの一角でのことだった。
「はあ」 何とも破棄のない返事をしたのは伸ばした金髪を一括りにし、眼鏡をかけた壮年の男。 つい最近までは大学の教授職に就いていたのだが、些細な事が原因で解雇されてしまった。 職がなくては生活が成り立たないのでここ数日、街中を歩き回っていた。職探し、というやつだ。
しかしこの世の中、どこも人を雇うだけ潤っているところは皆無に近かった。今日も何件か店をあたったが、よい返事はもらえなかった。 再就職は厳しいと思い知らされた家路で、知り合いと出くわした。
相手の名はカール・ハウスホーファー。 この間まで同じ大学の教授だったので、知り合いというよりは元同僚といった方が正しいかもしれない。 ただしそれは同大学教授、というつながりだけであればの話だ。
実はこの男は『トゥーレ協会』というある種の宗教団体のメンバーで、私自身この協会が行っている集会に何度か参加したことがあった。 円にルーン文字や記号、数字を書き込んで陣を描くことで想像上の動物を呼び出したり、異世界への移動を目標としている。 私は『あちら』でこれとはまったく異なるがよく似た『錬成陣』を描いていたので、陣の応用を解く者として時には意見を求められたりと重宝されていた。
そのハウスホーファーが私が大学を解雇されたことを聞き、捜していたのだと話した。 不景気で窃盗や殺人も横行する物騒なこの土地を離れて引っ越し、そちらの大学に転勤するそうだ。 トゥーレ協会の本部もルーマニアのトランシルヴァニアにあるので、つまりはそういうことなのだろう。
一通り自分の身の上を話した後、ハウスホーファーは一緒にルーマニアに来ないかと言った。 引っ越す先に私設の研究所があり、そこで知恵を貸してくれというそうだ。賃金は申し分ない。アパートの家賃も支払ってくれるという。職もない身の上としてはありがたい話に飛び付くのが本当だったのだろう。 口から出たのが何とも中途半端な返答だったのは、その私設がトゥーレ協会が運営するものだったことと、私一人でルーマニア行きを決めるわけにはいかないと思ったからだった。
「研究というのはやはり例の、ですか?」 相手ははい、と力強く頷いた。私はそれ以上に深くふれることはしないで二、三日考えさせてもらうことにした。 「よい返事を期待しています。ぜひお願いします。ハーエンハイム博士」 そう言ってハウスホーファーは雑踏の中に消えた。
「ただいま」 とホーエンハイムは賃貸アパートのドアを開けた。 彼は一人暮らしではなかったが、夕焼けで染まった室内から返事が返ってくることはなかった。
「エドワード? いないのか……」 二年前から同居し始めた息子は学校に通うこともしないで家や図書館にこもりっぱなしだった。 まだ帰っていないのだろうかと部屋に入ると窓辺のカーテンが揺れていた。 カーテンに隠れるように窓との間に椅子と人間の足が見えた。 「なんだ。いるんじゃないか」 ホーエンハイムはカーテンを揺らす冷たい風を閉ざそうと窓に手を掛けた。 息子は膝に難しげな本を開いて静かに空を見上げていた。
「きれいな夕焼けだな」 ホーエンハイムもつられるように空を見上げた。 エドワードは今日のように真っ赤な夕焼けになると、その日が沈んでしまうまで空を仰ぐことを止めなかった。 その懐かしむように淋しそうにしているエドワードの心にあるものをホーエンハイムは気付いていた。
思い出しているのだろう、『こちら』に来る前のことを。 こちらに来た当初、絶対に戻ってやると意気込んでいたエドワードはある時を境にそれに興味を失ったかのように見えた。 落ち着きというよりは諦めで、望みを捨てたというよりは捨てざるを得ない何かが出来上がってしまったようだった。
先程ホーエンハイムがルーマニア行きについて即答しなかったのはエドワードのこともあってだった。この状態のまま、ホーエンハイムだけが移動する気はまったく有り得なかった。 だから何気ないように尋ねた。決して強要することではないから、拒否することも選択肢に入れられるように。
「引っ越さないか」 「いいよ」 エドワードは素っ気なく答えた。 そのまま「あ」と呟くと夕飯の買い出しを忘れていたと部屋を出て行った。 どこに引っ越すかも訊かなかったのは、この土地に執着がないからだ。
意思の感じられないエドワードに、ホーエンハイムは目を伏せた。
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