次の日退屈な講義を二コマ受けた後、待ち合わせた中庭に行った。
 アルフォンスはまだ来ていなくて、オレは昨日腰を下ろしていた芝の上に寝転がった。





 シャンバラを征く者  予





 目を閉じると、司令部の中庭を思い出した。
 大佐が逃避しているところを何度か見かけたことがあったけど、オレ自身がそんなふうにのんびりしたことはなかった。
 あの頃は急いでいた。焦りもあった。本を読み漁って国中を駆けずり回るばかりで、ゆっくりする時間さえ惜しかった。
 鼻腔をくすぐる青い匂いが、故郷を思い起こさせた。


 『兄さん』
 「……アル?」
 目を開けると弟がいた。仰向けに芝に寝転がっていたオレを不思議そうな顔で覗き込んでいる。眠たい目を無理矢理こじ開ける。
 「……ア、ル? ……どうか、したのか?」
 いい香りがする。草を刈った時の、リゼンブールの匂い。懐かしい、帰りたい場所。帰ってきたのだろうか?

 帰ってきた? どこから?

 何かが違う。『違う』のが何なのか知りたくない。気付きたくない。
 このふわふわとした夢と現実の狭間に、ずっといたい。

 ……夢? ……何が? ……どれが?

 アルが心配そうに眉を寄せて、もう一度口を開く。

 「エド?」

 夢が、覚めた。弟ならばその呼び方はしない。
 ここは扉の向こう。別の世界。ルーマニア。トランシルヴァニア。
 目の前にいるのは、弟ではない。





 エドワードががばりと身体を起こす。反動で頬に触れ、視界に入ったのはポニーテールに括っている髪。そう、三つ編みにしないのは決意。『あちら』で願掛けのように伸ばし、三つ編みにしていたのと同じように。それが何よりの証拠。

 「ごめん」
 酷い顔をしているだろう、とエドワードは片手で顔の半分を覆った。辺りを見回して、エドワードは自分が置かれている状況を把握する。
 夢を見ていたのだ。ここは『違う』のだと、自分に言い聞かせる。ここはトランシルヴァニアの大学で、『アルフォンス』を待っているうちに眠ってしまったのだ。
 夢が夢だったために、覚醒していない頭で弟と『アルフォンス』を見間違えてしまった。そういうことだった。

 何かをこらえるように息を吐き出したエドワードに、アルフォンスは目を伏せた。
 「大、丈夫?」
 エドワードは一息つくと、何事もなかったかのように笑みを向けた。
 アルフォンスは思い当たって、これ以上は踏み込んではいけないのだと感じ取った。だから「お昼食べようか」と話題をそらすことにした。





 「……さっきさ、昔の夢、見たんだ。それで……」
 中庭でアルフォンスが持参したサンドウィッチを二人で平らげた後、ふとエドワードが呟いた。
 先程まで青空が広がっていたのに、雲行きが怪しくなっていた。雨雲が立ち込めて、湿気を含んだ風が吹き始めていた。

 先程のエドワードを見てから、アルフォンスはわざとらしいくらいに明るく振舞っていた。見てはいけないような、そんな気がしたのだろう。エドワードが気にしないように、元気になるようにと他愛のない話を続けていた。
 精一杯気を使ってくれているのが分かって、エドワードは漏らしたのだった。
 どうせこの世界には存在しない国の話。少しくらい誰かに話したところで、何が変わるわけでもない。

 「それで、昔のままだと勘違いしたんだ」
 力なく笑うエドワードに、アルフォンスが遠くを見る。
 「……ボクもね、たまにそういうことあるよ。……二年前まで、イギリスにいたんだ。父さんや母さんの夢を見て、目が覚めてもまだイギリスにいた頃だと錯覚してしまうことがある。……もう二年も経つのに」


 二年前、ロンドンは戦禍によって火の海となった。その時『こちら』のエドワードは巻き込まれて死んだ。あの混乱の中に、アルフォンスと家族もいたのだ。
 互いにつらい過去を持っていた。しかし今まで話せる相手がいなかった。話してはいけないのだと、聡い子供は周りの大人が発する空気を無意識に読み取ってしまっていた。

 「……オレ、誰かにこんなこと話したの初めてだ」
 「ボクも。父さんたちが死んでから、こっちに越してきたんだ。だから知らない人達ばっかりだったし」
 出会って間もないのに、気兼ねなく話せる相手がここにいる。それが何らかの絆が存在するためだということをアルフォンスは知らなかったが。





 「アルフォンスはロンドン生まれ?」
 互いの過去に興味が湧く。
 「ううん。小さい頃はすっごい田舎に住んでた。羊とかいっぱいいたし。道路も舗装されてなくて、たまに馬車が通るくらいの田舎。小学校卒業してから、父さん達の仕事の都合でロンドンで暮らし始めたんだ。エドは?」
 「多分似たような場所。図書館もなくてさ。学校は青空教室だった。本っ当に何もない田舎だったな。小学校は最後まで通ってなくて、後は一つ下の弟と十六まで旅してた」
 「小学校終わってないうちから? 二人だけで?」
 「あー。……ちょっとしたコネがあってな、それでも何とかなったんだ。母さんが病気で死んでからは幼なじみの家に随分世話になってたし」

 アルフォンスが首を傾げる。
 「……エドのお父さんってホーエンハイム博士じゃなかったっけ?」
 エドワードが一瞬、ぐ、と詰まる。
 「あいつはオレが小さい頃に出てって、母さんが死んでも帰ってこなかったんだ。理由があったから仕方ないとは思うけど……。二年前にひょっこり帰ってくるまで音沙汰なくてさ、弟なんてそん時初めて父親の顔見たようなもんだった。だからあいつと一緒に暮らし始めたのは二年前から」


 「お前、今どうしてんだ? ……親、いないんだろ」
 その割には身なりもしっかりしていて、不自由な様子はない。最初にミュンヘンで出会った時もそうだった。しかも大学に通っているのだ。
 「父さんと母さんは学者でね、やってた研究を気に入った人がボクを養子として引き取ってくれたんだ。だから今はこの街の郊外に住んでるよ」
 よかったじゃん、とエドワードは立ち上がる。

 「研究室、案内してくれるんだろ。行きながら話そう」
 「うん。そろそろ時間だものね。そうだ、今度はエドの話聞かせてよ」
 アルフォンスがにこりと笑う。

 エドワードは苦笑して、いいよと答えた。
 少しの感傷なら、思い出話で慰めればいい。





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