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「『さよなら』って。手、差し出されたけど素直に握り返しもしなかった。それが最後。そいつも弟と同じで生きてるかどうか分からない。ま、殺しても死にそうにない無能だったけど」
シャンバラを征く者 乱
「いけ好かねえ奴でさ。周りが大人だらけって言ったけど、周りも呆れてたことあったし」 中庭からキャンパスの東側の研究室塔が建っている辺りまで歩きながら、エドワードはため息をついた。 空からはしとしとと糸のような雨が降り出していて、二人はアルフォンスが持っていた一つの傘に収まっていた。
「でも、いい人だったんでしょ? エドの後見人になってくれたんだし、だから弟さんと二人でも旅ができたんでしょ」 「……う。まあ、それはそうだけど。でも、『いい人』っては絶っ対言えない! 女ったらしだし、無能だし、地獄耳で、何かと嫌味言ってくるし。その上出世街道まっしぐらで。あーっ思い出すだけでむかついてきた」 エドワードが頭を乱暴にかく。アルフォンスがそれを見てくすくすと笑う。 「でも、嫌いじゃなかったでしょ、エドは。何か嬉しそうだもん」 「……ま、ね。信用はできる人だったな」 本当、アルみたいだ、とエドワードは白状する。
研究室塔から少し奥に、もう一つ建物があった。煉瓦造りの古い二階建ての建物だった。エントランスから入ると中は少しひやりとしていて、思ったより綺麗だった。 アルフォンスが傘を畳んで、水を切るためにその辺に置いた。少し濡れてしまった肩やカバンを手で払ってみる。 意外としっかりした造りで、そんなに大きな建物ではない。研究室塔にはあった人気がなく、静まり返っている。学生の出入りもないようだ。
「オレなんかたまに顔合わせるだけだったからまだいいよ。美人でかっこよくて頼れる副官がいなかったら仕事にならなかっただろうな。いっつも「仕事してください」って言われてたっけ」 アルフォンスがドアノブに手を掛けながら苦笑する。そして言う。 「何か、マスタング助教授みたい」
瞬間、エドワードが表情が凍りつく。 何て言った?今 フリーズした頭で必死に思考する。
「エド?」 ざっと顔色が変わったエドワードに、アルフォンスがうろたえる。
偶然だ。偶然同じ名前なだけだ。アルだけでこんなに崩れそうなのに。今あの顔を見たら、あの声を聞いたら、どうなってしまうのか。冷静でいられない。
ノブが回ってしまったドアがゆっくりと開いていく。古い書物が持つ埃の匂いが届く。嗅ぎ慣れた、図書館か資料室のような懐かしい匂い。 部屋の中が露わになる。部屋の奥に置かれた木でできた机。 その椅子に男がいた。研究資料なのか積み重ねられた書類に囲まれて、指を組んで不敵に笑う男がいた。 目を見開く。 逆光で見えにくい表情。しかし、あの漆黒の髪。そして口を、開く。
「誰が私のようだって?」
耳に届いたのは紛れもなくあの声だった。『あちら』と同じ言葉。やはり『あちら』と同じ人間が『こちら』にもいた。
「……たい、っ」 エドワードは思わず口走ってしまいそうになった名前を押し留める。 平静を保とうと必死だった。 「エド?」 「……何でも、ない」
アルフォンスがエドワードを部屋に招き入れる。 「マスタング助教授、彼が……」 「ああ、ハウスホーファー教授から話を聞いている。小柄で金目金髪の目立つ容姿をしていると言っていたが。ホーエンハイム博士の息子さんだろう? 私はロイ・マスタング。この大学で史学の助教授をしている」 マスタングが椅子から立ち上がり、近付いてくる。 「エドワード・エルリック……です」 エドワードはやっとそれだけ口にする。
「エドワード、この間はよくやった」 マスタングがにたりと笑って手を差し出す。別れの時と同じ手だった。 エドワードとアルフォンスは何のことか分からずに顔を見合わせる。 「ハクロ教授は前から気に食わなくてな。何かと私に突っかかってくるし。一介の生徒にあそこまでやられれば、今後少しは自重するようになるだろう。鼻をへし折ってくれて感謝する」 あの時は握り返さなかった手を、握る。 大丈夫、巧く繕える。そう思った瞬間だった。
「学会での発表日が迫っているのに楽しくおしゃべりですか? 手を動かしてください。マスタング助教授」 有無を言わせずはい、と答えてしまう厳格さを備えたきりりとした声。 予想し得なかった声に、エドワードが驚いて振り返る。
今しがた入ってきたドアから、湯気の立つカップを乗せたトレイを小脇に、エドワードよりも薄い金髪を後ろでまとめあげた女性が歩いてくる。 「ホ、ホークアイ講師。いや、ちゃんとやっていたよ。今アルフォンスがこの間の学生を連れてきたものだから挨拶を……」 ロイがしどろもどろになって答える。いつものことなのか、アルフォンスはそ知らぬ顔で見ている。 これは見た光景だ。どこも違わない。あのままの光景だ。アルが鎧でないだけ。
「あら、ごめんなさい。はじめまして」 トレイを抱えているので手は差し出せないが、微かに微笑む。珍しいと噂になった、あの笑顔だ。 でも、何を言っているのか分からない。耳をすり抜けていく。
「……中、尉」 思わずこぼれた言葉に不思議そうな顔をする。口が動いているのに、聞こえない。周りの音全てがない。 違う。……ここは、この世界は……オレがいた、世界じゃ……
「ごめん。帰る」 エドワードが掠れた声で呟いた。アルフォンスが怪訝な顔をする。 ぷつりと何かが切れてしまいそうだった。後一秒でもこの場所にいたら、張り詰めたものは音を立てて崩れてしまうだろう。そうなったら平静ではいられない。
「エド!? 待ってっ」 部屋から飛び出したエドワードをアルフォンスが追う。残された二人はただただ顔を見合わせるばかりだ。
違う。違う。違う。違う! ここは扉の向こう側なんだ。あの人達は大佐でも中尉でもないんだ! どうしてこんなに動揺してるんだ? アルフォンスに出会って、分かってたはずじゃないか。いや、分からない。分からない。オレは、どうすればいいんだ?
エドワードは走った。できたばかりの水溜りに足を突っ込んで泥を跳ねさせながら、自分がどこにいるかも知らないまま人気のない場所を求めた。 完全に混乱していた。視界が歪む。鼻がつんと痛く、目頭が熱い。 大学の敷地内ぎりぎりの隅に植えられた大木を視界の端に映り込む。 エドワードはその下にへたり込んだ。
アルフォンスがやっとエドワードの姿を見つけた時、エドワードは人気のない大木の下に座っていた。膝に乗せた両腕に顔を埋めていた。 大きな広葉樹のおかげで、雨はほとんど当たらない。 アルフォンスは息を整えて、そっと近づく。すっかり濡れてしまった髪から、雫が落ちる。
「……エド」 エドワードの肩が震えている。エドワードが泣く理由がアルフォンスには全く分からない、はずだった。 アルフォンスがエドワードのすぐ隣りにすとんと腰を下ろす。エドワードの嗚咽が治まるまで、そのまま無言で居続けた。
「そんなに、似てる?」 エドワードはいまだ顔を上げていなかったが、代わりに肩がびくりと跳ねる。 「マスタングって聞いた途端おかしかった。握手の時も、ホークアイ講師の顔見た時も。ボクを弟さんと見間違えた時と同じ顔してた」
エドワードは微動だにしなかった。答えようがなかった。けれども、しぼり出した言葉が口をついて呟きとなる。 「……ちが、う」 「エド?」 「違うんだっ!!」 アルフォンスが伸ばした手が肩に触れた瞬間、エドワードが乱暴に払いのけた。アルフォンスが驚いて目を見開く。 エドワードはもう泣いてはいなかったが、その瞳は赤く、涙がこぼれていないだけだった。顔をしかめて、必死で泣くまいとしているようだった。
「違うっ! お前はアルじゃないし、あの人達は中尉でも大佐でもないんだっ!!」 エドワードは自分に言い聞かせるように、首を振って違うと繰り返す。アルフォンスがその場にいることさえ、忘れてしまっているようだった。 大木の根元に座り込んだまま、両手で頭を抱え込む。 「エドっ!!」 半狂乱になりかけているエドワードの腕を、アルフォンスが掴んだ。きつく握り締められた痛みで、エドワードが自分を取り戻す。呆然とアルフォンスを見上げる。焦点が合うと、金色の瞳が再び潤んだ。
「……二年前に全部、失くしたはずなんだ。……オレの全部で取り戻そうとしたのに、オレは生き残ってしまったから……だからっ」 見る見るうちに涙は溢れてこぼれ出した。雫がエドワードの頬を伝って落ちていく。 「……ボクもそうだよ。戦争だから仕方ないとは言えないけど、でもボク達はこうして生きてる。生き別れたのなら、またきっと会……」 「……だめなんだ。帰れない」 エドワードがうつむく。拒絶の声だった。
「……帰れないんだ」
アルフォンスが雨に濡れて張り付いてしまった一筋の髪をつまんで除ける。 遠慮げに肩を抱き、やがてあやすようにゆっくりと規則的に叩いた。雨がしとしとと降り続ける中で、アルフォンスは思った。
二年前、ロンドンは火の海となった。エドワードもまた、あの争いの被害者なのだろうと。自分や助教授、講師に酷似しているという彼の親しい人達はすでにこの世にいないのかもしれない。 『似ている』ということが、彼自身が堰き止めていた何かを壊してしまったのだ。エドワードという人間が、こういう姿を晒すことはないと感じていた。
『失った』ということを、『死んだ』ということを受け入れられない者もいる。自分だってつい最近までそうだった。あの混乱の中で、戦火の中で両親が肉になり、ただ焼け焦げていくのを見た自分でさえそうだった。
アルフォンスは何も聞かず、ただそばにいた。それが最善の方法だと思った。 それしかできなかった。 震える肩を手のひらで、子供にするようにとん、とんと打つ。雨に紛れてしまった心音に合わせるように。
たまりかねて捜しに来たマスタングがやっと見つけ出すまで、二人は静かにそうしていた。
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