「ホーエンハイム博士、ご機嫌いかがかしら」
 古びた書物が詰め込まれた本棚。図案が描かれた羊皮紙がいたる所に散らばっている。
 試験管やビーカーも一通り揃っている狭くはない部屋。
 研究室と称されたその部屋の扉を開け、姿を現したのは妙齢の女性だった。

 表向きはこの街の郊外に巨大な屋敷を持ち、中世から続く由緒正しき家系を組する女主人。しかし真の顔は、理想郷『シャンバラ』を探し求めるトゥーレ協会の会長、デートリンデ・エッカルト。
 肩までのくすんだプラチナブロンドの髪に、冷たいほどの青さを保った瞳。彼女のような『貴族』に属する女性は、普通ドレスかそうでなければスカートを着る。しかしこの女性がそういった姿をしていることはまずない。機動性を重視してか、パンツをはいていることが多い。今日もまたそうだった。


 「これは……エッカルト夫人」
 そう言ってホーエンハイムは差し出された手の甲に挨拶の口付けをした。





 シャンバラを征く者  企





 「いかがなされましたか? エッカルト様」
 ホーエンハイムの研究過程報告を聞いてから黙り込んでしまった『主』に、側らで控えていた男が尋ねた。
 エッカルトはため息を吐き、腰掛けていた布張りの豪華な造りの椅子から立ち上がった。窓際に足を進め、見下ろした先には帰路に着いたホーエンハイムの遠ざかる後姿があった。


 「あの男、思っていたより使えるわ。あんな人間、どこで見つけてきたの? カール・ハウスホーファー教授」
 わざとらしくフルネームを呼び、くるりと振り返ると、エッカルトは不気味なほどの笑みを浮かべた。

 「数年前にミュンヘンで」
 完結に答えたのはハウスホーファー教授その人だった。大学で見せる笑顔は微塵もなく、エッカルトとは対照的に無表情が張り付いている。
 「一月ほど前にミュンヘンで大学から追い出されまして、その後探し出して声を掛けました。彼には息子以外の肉親はおりませんし、驚くほど魔術に詳しい」

 「よくやったわ。彼の手を借りれば『シャンバラ』への道は近くなるでしょう。先程も話を聞いたのよ。やはりあの学者夫婦が進めていた研究内容は『シャンバラ』について。夫婦がロンドンで犠牲になったと聞いた時は惜しいことをしたと思ったけれど、研究をまとめたものが残っていたから問題はないわ。解読に要する時間もほんの少しのことよ。ホーエンハイム博士がいればね」
 エッカルトは口元に手を当てて、恍惚と微笑んだ。

 するとふと表情を変え、ハウスホーファーを鋭く見とめる。
 「……息子がいるというのが気にかかるわね。博士を研究室に泊まり込ませたりしたら怪しむかしら? 邪魔になる者は少ない方がいいわ」
 ハウスホーファーが瞳はそのままで、口の端を引き上げる。
 「ご心配はいりません。息子の方は大学で私の監視下に置いております。今のところ変わった様子は全くありません。ホーエンハイム博士に対しては反発心、反抗心が強いです。博士自身は長い間家にも帰らなかったために避けられているのだと苦笑しておりました。二年程前から一緒に暮らし始めたばかりだとか」


 「その子は優秀なの?」
 デートリンデは訝しげな表情で尋ねる。
 「今まで独学で勉強していたそうですが、編入試験は文句の付けようがありませんでした。母国語は英語なので文法関係が若干弱いですが、その他はこれといって。……エドワード・エルリックを引き入れることは無駄だと思いますよ」

 「あら、なぜ?」
 「博士がいうには、二年前ロンドンの戦火で弟を失ってからだとか。……ステューデントアパシー、とういうものですか。素質は素晴らしいのに薄志弱行とは惜しいことです。大学にも足を運んでいるだけですね」
 そう、とデートリンデは気のない返事をした。
 やる気のない息子などどうでもよいのだ。使えなくとも、邪魔にさえならなければ放って置けばいい。

 「……もうすぐだわ」
 デートリンデは満足そうに笑う。
 見つめる窓の外では、血のように赤く滲む夕陽が今にも隠れようとしていた。










 「エドワード。今日も寝ていなさい。まだ熱が高い」
 ホーエンハイムはエドワードの額から手を離して言った。
 エドワードはホーエンハイムに背を向けるようにベッドに横になっている。頬は紅潮し、目を閉じたままだるそうに無理矢理呼吸を繰り返す。

 「学校には連絡を入れておく」
 ホーエンハイムはエドワードの額に乗せられていたタオルをもう一度氷水に浸し、パシャリと音を立てて絞った。それを再び乗せる。
 「では、私は仕事に行ってくるから」
 パタリとドアが閉まり、静寂が辺りを満たした。





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