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土砂降りに降られて研究室から傘を借りて帰宅したのは三日前のことだった。
シャンバラを征く者 症
酷い目にあった、と嘆息しながら家のドアを捻れば、おかしなことに鍵が開いていた。 息子が帰ってきているのかと考えたけれども、明かりも点いていない。訝しんで息子の部屋を覗いてみれば、水をかぶったようにびょしょ濡れのまま入口に座り込んでいた。薄暗い中でミュンヘンにいた時によく見せていた、放心したような横顔が目に入った。 驚いて思わず部屋に踏み込んだが、いつもの怒鳴り返しもなかった。どうした、と掴んだ肩から冷え切った体温が伝わった。 ほつれた金髪から雫が滴った。
とりあえずシャワーを浴びさせ、着替えさせ、ケットと熱いお茶を渡した。ケットを肩に掛けるように促し、お茶が半分ほどに減るまで待った。 息子は酷く憔悴した様子で一言もしゃべらず、促されるままにお茶を口にした。 「何かあったのか」と尋ねても最小限の動きで首を横に振るだけだった。 時間をかけて空にしたカップを残して、おぼつかない足取りで部屋に向かう時に一瞬足を止めて、 「……どれが、本当なのか分からない」 そう呟いた。
翌日珍しく寝坊している息子を起こしに行ってみれば、高熱を発してベッドから起き上がれない状態になっていた。昨日そう短くない時間、濡れ鼠でいたためだろう、すっかり風邪をこじらせていた。 自分は一応医学にも明るいので、持ち合わせではあったがとりあえず抗生物質と解熱薬を飲ませた。
息子の変調の理由はすぐに納得することになる。 エドワードの欠席の連絡がてらハウスホーファー教授に会いに大学に行くと、その帰りに構内で見知った顔をした人物とすれ違った。 ああ、と思った。これでは頷ける。 側らに女性を連れた彼は私を知っていたようで、彼らは切り上げて話しかけてきた。
「ヴァン・ホーエンハイム博士ではありませんか? はじめまして、史学科助教授のロイ・マスタングと申します」 握手に応じ、息子の上司にそっくりだと思う。 何とも言えずにいると、彼が口を開く。 「……あの、今日はエルリック君は?」 言いにくそうなところを見ると、やはり昨日のことは『マスタング助教授』も関わっているのだろう。 大方アメストリスとこちらの世界と混乱しかけている、といったところか。
「……昨日は私が何か彼の気に触るようなことをしてしまったようなので」 隣りにいた金髪の女性が続ける。彼女もエドワードと親しかった人物と似ているのだろう。真摯に尋ねてくる二人に、気にすることはないと答える。 「いや、昨日雨に降られたのがいけなかったのでしょう。風邪をひいてしまったらしくて今日は休ませました。その連絡も兼ねて今大学に」 厳しい表情を変えない二人に、的が外れたと気付く。
「それでは、お大事にと伝えていただけますか。それから、研究室にはまた遊びに来て構わないと」 「ええ。……本当に気にしないでください。勝手に言うと息子に怒鳴られそうなのですが、その……あなた方は息子の知り合いにとてもよく似ているのです。少し混乱してしまったのでしょう。息子はちょっと……人と関わり合いになるのを避けるようなところがありますから、懇意にしていただけるのは嬉しいことです。どうぞよろしくお願いします」
二人と別れた後、郊外へと向かいながら思い返した。 失敗した。どうやら雨中へ、は彼らと顔を合わせてからの話らしい。 上着の内ポケットから懐中時計を取り出して時刻を確かめる。研究室には遅刻せずにすみそうだ。
それから三日経った。 エドワードは薬が効いたのか、咳や諸症状はなくなった。しかし依然として高熱とも微熱ともいえない三十七度五分程の熱が続いていた。 ホーエンハイムが作った物は料理と呼べる代物ではなかったので、このところの食事はこのアパートの一階で食事所を経営している奥さんに頼んでいた。
越して来た日、彼女を見てエドワードが表情を変えたので、ホーエンハイムは彼女もまた『似ている人』の一人なのだろうと思っていた。それとなく訊いてみると、『あちら』で世話になった軍人の奥さんにそっくりなのだと言った。
エドワードは治ろうという気はあるようで、できる限り食事を摂った。熱が下がらないだけで、部屋の中は歩き回っていた。
エドワードはミュンヘンから持ってきた本も詰まっている本棚から一冊を抜き出し、ページをめくった。 エドワード自身が購入した本ではなく、ホーエンハイムの本だった。父親の物だと思うと気が引けるが、自分の本は読み尽くしてしまっているし、これは最近ここに加わった物だった。
内容はトランシルヴァニアより東の国の古代宗教について。興味のない話だった。善悪二元論など胡散臭い。元より神様などという存在は信じていない。 とりあえず、暇つぶしに最後まで読んだ。頭には入るが、こんなもの何の役にも立たない。『あちら』に帰れるわけではないのだから。 エドワードはやりきれない思いを振り払うように勢いよくパタンと本を閉じた。
「おや、君は……」 ホーエンハイムはアパートの下で逡巡している様子の少年を見つけて思わず声をかけた。 一階の食堂からは夕食用のいい匂いが漂っていた。
「……あ、の?」 濃い金髪。ただし優しげな瞳は澄んだ青だった。同じ青と言っても、エッカルトとは全く違う温かみのある青だった。 その面差しをホーエンハイムは知っていた。 「アルフォンス君だろう?」 小さく頷くのを見て、続ける。
「私はホーエンハイム。息子から君のことは聞いているよ。悪いね、迷惑かけたみたいで」 ホーエンハイムが困ったように笑うと、「そんなことは、」とアルフォンスが言う。 「三日も大学休んでるから……心配で。ハウスホーファー博士に風邪だと伺ったんですけど。その、ボクのせいなんです……」 うつむき加減で言うアルフォンス。 「大丈夫。熱が少し残っているだけなんだよ。君のせいじゃない。……エドもバツが悪いんだ。よかったら会っていってくれないか? 部屋はこの上なんだ」 さあさあ、とホーエンハイムはにこやかにアルフォンスの手を半ば強制的に引っ張って行った。
「……アル、フォンス」 ホーエンハイムの後ろから姿を現したアルフォンスに、エドワードは一瞬驚いた。それに気がついていない様子でホーエンハイムがアルフォンスを引き入れ、紅茶を入れるために湯を沸かす。 「どうぞ」 紅茶を出されてアルフォンスはいただきます、と受け取った。エドワードも無視するわけにもいかないのでサンキュ、と口をつける。料理は作れなくとも紅茶くらいは入れられるものだ。 その後ホーエンハイムは自室に引っ込んでしまった。
「……ごめん、突然」 いきなり謝られて、エドワードの方が困った。 「いや、オレが。……あんなことして、悪かった」
「風邪、大丈夫?」 エドワードの顔色はほんのりと赤い。さっきまで寝ていたので髪は後ろに緩く結び、軽い物を着ていた。 「ほとんど治った。お前は? 濡れただろ、あの時」 「ボクは大丈夫」
取り留めのない話をして、「そろそろ帰るね」とアルフォンスが席を立つ。 「よくなったら、また研究室においでよ。マスタング助教授もホークアイ講師も悪い人じゃないんだ。その、つらいなら……」 「ありがと。……二人に謝っててもらえないかな。それから、今度ぜひ顔出させてもらいますって」 エドワードはそう言って笑った。
やはり少し寂しい気持ちはあったが、吹っ切るよう笑った。 エドワードの言葉に、アルフォンスもほっとした表情をした。
「エド?」 アルフォンスが帰った後、見送ったエドワードはその場からなかなか動かなかった。一陣の風に髪がもてあそばれて、エドワードの顔が隠れる。
「……どこまで行っても、ここから逃げられない。……だったら正面から見据えてやる」 何かに一つ区切りをつけた息子に、ホーエンハイムは、 「ここは冷える。中に入りなさい」 そう言って夕暮れに目を移した。
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