『彼』が出入りするようになってから、数週間が経つ。

 勉学は熱心、表情も豊かになった。知識も豊富で、不思議な雰囲気を持っている。ハウスホーファー博士から聞いていた『彼』の人物像とは合致しない。
 しかし、そんなことはどうでもいいと思う。どれが本当の『彼』なのか知る必要などないし、知りたいとも思わない。
 このような世の中では、『本当』などというものは酷く曖昧で、頼りにならない。

 私が知っているのは、『彼』が時々おかしな表情で私達を眺めていることくらいだ。困惑したような、郷愁するような、そんな表情だ。それも巧妙に隠されている。
 だから、私は『彼』と二人きりになる時を見計らう。本を読みながら、世間話をしながら、何気ないふうを装い尋ねるのだ。

 「そんなに似ているかね?」
 『彼』が息を呑む気配が伝わる。
 そうして、『彼』は困ったように笑うのだ。

 「……口調とか、むかつくくらいそっくり」





 シャンバラを征く者  名





 「ああ、温かい」
 ホーエンハイムは朝食にコーヒーを飲みながら、しみじみと呟いた。両手でカップを持ち、ほっと息をついている。
 一方、エドワードはいつも通りだ。窓の外に視線を移すと、木枯らしが数枚の枯葉を吹き飛ばしていくところだった。

 「お前は寒さには強いな」
 毎日重役出勤なホーエンハイムは、エドワードより後に家を出る。今日もまだ時間に余裕があり、のんびりとまたカップに口をつける。
 「オカゲサマで真冬のクソ寒い時に生まれましたからね。雪も降らないうちからそんな状態のあんたを疑うよ」
 皮肉も父親には伝わらなかったらしい。エドワードの言葉に、突然「ああ」と嘆いて額に手を当てた。

 「すまない、すっかり忘れて……いや、その近頃忙しくて。ああ、まいったな」
 眉を寄せてぶつぶつとなにやら呟く。
 エドワードは空になった食器を流しに置き、蛇口を捻って水を出した。洗い物は溜まりやすいうえに、片付けるのが面倒だ。男の二人暮らしだと、いっそう顕著だ。食器はその時その時で洗ってしまった方がいい。

 「悪い、エドワード。もしかすると来月から泊まりになるかもしれないんだ」
 ほとほと困った声が、スポンジを握るエドワードの背にかけられる。エドワードは謝られる理由が分からなくて、振り返った。
 「いいんじゃないの? 仕事あるうち。オレは適当に大学行って適当に生活してるから。ああ、フトーコーなんてならないから無駄に気にかける必要なし」
 ぴしゃりと言うエドワードに、ホーエンハイムがそうじゃないと否定する。

 「そうじゃなくて、その……来月お前の誕生日があるだろう」
 「…………」
 「年が明けるまで詰めさせられそうなんだ。会長は年末年始も祝い事も関心がない方だから」
 しおれたように言うホーエンハイムに、エドワードは少ない泡のついたスポンジを握ったまま、硬直していた。ちょろちょろと流れる水が、静かに排水溝へと吸い込まれていく。

 「本当に悪い。当日だけは休憩をもらって一度帰ってくるから」
 そこまで言って、ホーエンハイムはやっとエドワードに気付いた。
 「そんなに怒るなよ。な、悪いとは思っているんだ」
 理想の息子像を持っている父親に、エドワードは嫌気が差してふー、と息を吐き出した。このまま誰もブレーキをかけなかったら、ホーエンハイムはどこまでもイッてしまう。エドワードはこの二年でそれを痛感している。

 「あのなあ、オレ誕生日祝う年じゃねぇって。大体オレの方が忘れてたよ」
 「しかしな、」
 食器を綺麗に洗い終えたエドワードはホーエンハイムの言葉をぶつりと遮る。
 「あんたと二人で特別食卓囲むなんて気色悪いから祝い事なんて却下。あんたは研究室、オレは家。決定!」
 「でも……」
 「でもじゃない! じゃ、行ってきますっ!!」

 最後はほとんど怒鳴るようにして、エドワードはカバンを引っ掴んだ。そのまま駆けていって、ホーエンハイムが二の句を告げられないまま、ドアはバタンと閉まった。










 「マスタング助教授、エドどうしたんですか?」
 「なぜそれを私に訊く。ここに来た時からあの調子だ。私のせいじゃない」

 ロイの研究室塔にある書庫の中で、エドワードは通常通り読書に没頭している。
 ロイとアルフォンスが部屋のドアを少しだけ開けて覗き込むようにして気兼ねしているのは、エドワードの様子がいつもと違うからだ。
 棚から取り出してきた本を積み上げ、自身も床に腰を下ろし、ものすごい速さでページをめくっていく。積み上げられた本がまるで床から生えているよう木のようで、それが一本二本ではない。ほんの少しでもバランスが崩れてしまえば、エドワードは大量の本の下敷きになってしまうだろう。

 声をかけないのは、エドワードの虫の居所が悪いと顔に書いてあるので触らぬ神に崇りなし、という先人の教えを守ってのことだった。
 今のエドワードは周りの音も景色も完全に遮断しているだろうが、その異常なまでの集中力を途切れさせないように、ロイとアルフォンスはそっとドアを閉めた。



 「ボク、午前中も一時間同じ講義に出たんですけど、挨拶し損なっちゃったんです。グラマン教授も不審がってたし」
 言いながら、アルフォンスはおもむろにカバンから一冊の古ぼけた本を取り出した。鍵つきで、年月が経ったというよりは風雨にさらされたような荒れた表紙だった。
 それを大事そうに抱える。
 ロイが、気付いて走らせていた万年筆を止める。

 「解読は進んでいるのかね?」
 優しい声だった。ロイはこの本がアルフォンスにとってどれだけ大切な物なのかよく理解しているのだ。
 「まだよく分からないことばかりですけど、助教授に相談に乗っていただいている分、少しずつは」
 「役に立てれば嬉しいよ」
 「父さんや母さんが何を研究していたのか、何を求めていたのか。それが分かるまで何年かかったっていいんです。むしろ、こうして残った物に触れている時間がいいのかもしれません」
 微笑んだアルフォンスに、ロイは再びペンを取った。



 エドワードが書庫から出てきたのは、夕方も遅い時間だった。夕陽が沈んで、外は暗くなり始めている。
 「アルフォンス、来てたのか」
 先ほどまでは考えられなかったくらいにすっきりとした顔で言うエドワードに、ロイもアルフォンスも拍子抜けする。
 「……エド、何かあったのかと思った」
 エドワードの変わり様にアルフォンスが呟く。
 「へ? あ、ああ。ちょーっと朝に気色悪いことが……この話題は止め! 助教授、書庫貸してくれてありがと。気分転換になった」
 超乱読は気分転換するためだったのか、と二人は顔を見合わせ納得した。










 季節はもう冬だ。ここ数日の冷え込みで、雪もちらつき始めた。

 「来週から泊まり込みだろ。準備とかは?」
 夕食を食べ終わった後、エドワードはホーエンハイムに尋ねた。
 「え、ああ。着替えと本を数冊持っていけばいい。他はもうあちらで使っているから」
 「あっそ」
 二杯目の紅茶にレモンを入れて、瞬時に色が変わるのを面白そうに見ているエドワード。

 しばらく居心地が悪いわけではない沈黙が続いて、そしてホーエンハイムはふいに口を開いた。
 「お前は、楽園はあると思うか?」
 その問いに対して何の期待もしていない、唐突な投げ掛けだった。
 エドワードは虚をつかれたように、視線を上げる。ホーエンハイムの瞳が静かにこちらを向いていて、すぐにそらした。

 「……例えば?」
 「飢えも争いもない、望んだ人間にさえ会える、『幸せの源に守られた』場所」
 「……興味ねぇよ。今さら」
 「気分を悪くしたなら謝る。ただ、『門』を通ったお前は、『真理』を知ったお前なら、どう思うのだろうと」

 「いいって、別に。もう割り切ったし。全部吹っ切ったから。『門』をくぐろうが何をしようが、楽園なんて人間が考え出した理想だよ。ここじゃないどこかを欲したやつらが、考え出した『夢』だろ。現状が苦しければ逃避するのはどこの人間だって同じさ。『あっち』でもあったよ。なんて名前だったかは忘れたけど」
 投げやりに言うと、エドワードは紅茶を飲み干して椅子から立ち上がった。部屋に戻る、とホーエンハイムを残して出て行こうとする。
 その足が、ドアを前に止まった。

 「なあ、親父。ここじゃなんて名前?」
 エドワードは背を向け、ノブに手をかけたまま言った。
 「そうだな、世界中いろいろな名前で呼ばれるが……その一つに『シャンバラ』というのがある」

 ふうん、とエドワードは興味がなさそうに呟くと、やはり振り返りもせずに自室へと向かった。





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