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人生何が役に立つかなんて、その時になってみなければ分からないものだ。逆にいえば、その場になって初めてああ、と納得する。 それがどんなに些細なことでも、他愛ないことでも、『運命』なんて言葉を思い出してしまう。
神様も信じていない自分が。
シャンバラを征く者 機
「あれ、エドは?」 アルフォンスが研究室に入って来るなり尋ねた。 「エドワード君なら、今日も書庫よ」 苦笑して答えたのはホークアイで、マスタングは机にへばりついたまま、力なく隣の部屋を指差した。
疲弊しているのは、近々学会に提出する論文の締め切りが迫っているためだ。やらなければぎりぎりまで怠けるマスタングの性格を知っているホークアイが、冬季休業に入ると強制的に缶詰にしてしまったのだ。 すでに一週間はこうしているわけだが、ホークアイの監視の目は一向に緩む気配はなく、その鋭い眼光に射すくめられたマスタングが逆らえるはずもなかった。
近頃のエドワードは冬季休業中にも関わらず、この研究室によく出入りする。大学に足を運ぶことすら積極的でなかった数週間前には考えられないことであった。 この研究室を血相を変えて飛び出し、風邪で数日寝込んだエドワードは、その後アルフォンスと一緒にふらりと現れた。もう取り乱すことはなかったし、理由と謝罪も口にしたが、詳しい事情には触れなかった。 以来、必要最低限の講義だけを受けると、空いた時間は大学の図書館かロイの研究室の隣りに設けられた書庫にこもる生活が続いている。しかし、特に何かを目的としての読書ではなく、片っ端から読み進めているにすぎない。乱読ともいえないものだった。
文字が羅列している。 それを丁寧に拾って、頭の中で認識して組み立て、理解する。 がさがさで質の悪い、古い湿った紙の束。背表紙を指でなぞれば、埃が舞う。カビ臭く、薄暗いこの部屋の中が一番居心地がいいことに最近気が付いた。 理由は簡単だ。 懐かしいから。
アメストリスでは中央の図書館だったり、司令部の閲覧室だったり、上司の個人的書庫だったりしたわけだけれども。抜け殻のような読み方は以前とは全く違うけれど、こうしてこの場所にいることが好きなのだ。 講義を積極的に受けているわけではないエドワードには、時間があり余っている。やることがないというのは、ある意味で牢獄に囚われているようだった。毎日同じことの繰り返し。 ホーエンハイムには「吹っ切った」と意地を張ったが、現実にはそうそう割り切れるものではなかった。
ふと文字が陰って、顔を上げる。昔ならこれくらいのことで気が途切れることもなかった。内心複雑な気分になった。 「エド、休憩しない? ホークアイ講師がお茶入れてくれたんだ」 アルフォンスがいつもの笑顔で立っていた。エドワードは「ああ」と頷いて、読みかけの本を閉じた。
研究室ではマスタングも手を休めてコーヒーをすすっているところだった。ホークアイの許可が下りたらしい。適度な休憩を入れて効率よく進めたいらしい。 エドワードとアルフォンスもホークアイが淹れた紅茶を飲んで息をつく。
「マスタング助教授、今回の論文のテーマって何なんですか?」 アルフォンスがふと思いついたように言う。マスタングは机の両脇を資料やら文献やらで挟まれ、身動きすらままならない状態だった。 「ゾロアスター教だよ。一番得意な分野だからすぐに終わると思ったのだが、見込み違いをした。主張したいことがたくさんありすぎて、脱線しないようにまとめるのに苦労する」 顔をしかめて、マスタングはまたコーヒーを飲む。休憩というよりも、睡眠阻止剤としての働きを期待するばかりだ。
「ゾロアスター教? 聞いたことはありますけど」 アルフォンスが首を傾けた。 「紀元前七世紀頃に興ったイランの宗教だよ。この世界を光明の神アフラ=マズダと暗黒の神アーリマンとの対立からとらえるんだ。別名は……」 「拝火教」 口にしたのはエドワードだった。 「ゾロアスター教は火や光を崇拝したから、そう呼ばれることもあるんだ。アケメネスって王朝で保護されて、ササンって王朝は国教にしたんだ。確か最後の審判ってのがあったよな」 エドワードはどこか遠くを眺めるようにして、言った。
「そう、よく知っているな。アフラ=マズダとアーリマンの優越は三千年ごとに交替し、九千年か一万二千年目の決定的戦闘にアフラ=マズダが勝ち、善い人達の魂も救われるといわれているのだよ」 「何か……キリスト教やユダヤ教にも同じような話がありますよね」 「影響を受けているのは間違いないだろう。ああ、こんなことならばウェスタにしておくんだった」 マスタングが嘆いて髪をかきあげた。 「ボクもその方がよかったと思いますよ。ローマ神話なら馴染みがあるから手伝えたかもしれないのに。残念です、助教授。お一人で頑張って下さい」 アルフォンスがにこりと笑顔を向けた。エドワードとホークアイは苦笑して、マスタングは拗ねたように窓の外へと視線を移した。
「エドって、物知りだね。この辺りじゃ中東の宗教についてなんて、一般にはほとんど知られていないのに」 アルフォンスが興味津々な様子で尋ねた。 「へぇ、そんなもんなのかな。しばらく前に読んだ本に書いてあった。どこで読んだんだっけかな」 対照的に、エドワードは紅茶をかき回すことに専念している。
「君は本当に不思議だな。常識的なことは知らないのに、普通は知らないような知識を持っている。やはりホーエンハイム博士の影響が大きいのかね?」 マスタングが呆れて言う。父親の名前が出されると、エドワードが顔をしかめた。 「あー。思い出した。その本、親父の書庫にあったやつだ。風邪で寝込んでた時に退屈しのぎに読んだんだ」 「ほお、それは……」 「そろそろお時間です」 興味をそそられたマスタングが身を乗り出すと、ナイスなタイミングでホークアイが割って入った。ホークアイの雰囲気に、エドワードも「また今度」と繕うしかなかった。 マスタングが走らせるペンの音が始まった。
エドワードはぼんやりとマスタングの顔を眺めていた。無意識のうちだった。 こちらでは少ない、艶のある漆黒の髪。伏せた目は書面を行ったり来たり。推敲なのか、時折手に持った万年筆で矢印を引っ張ったり、何か端に書き留めたりしている。
エドワードは思い出していた。 似ているでは済まされない容姿、性格。もちろん、全て一致するわけではない。大学の助教授なんて職業だし、手袋なんてしていないし、自分に対して笑うし、自分も意地を張らずにいられるから喧嘩になることもない。ぶらぶらと毎日を読書だけで過ごしている自分に、何か打ち込めるものを探して世話を焼いてくれたりもする。こそばゆい感じがしてたまらない。
アルフォンスについてもそれは同じで、友人という関係はとても不思議な距離だった。 そうして差異を見つけるたびに、やはり全く別の人物なのだと納得していく自分がいた。それは嫌なことじゃない。嫌でも認めなければならないことだから。
その一方で、何と説明すればいいのか分からないような共通点もある。 マスタングの研究内容がまさにそれだった。ゾロアスター教は火を尊敬視する宗教だ。そして『ウェスタ』。ウェスタはローマ神話に出てくる女神の名だ。それも炉を司る女神。ウェスタの祭壇には聖火があったはずだ。 どちらも火に関係する分野を得意としている。若くして社会的地位は高いし、それなりに野心もあるようだ。こちらではまだそういう話は聞いていないけれど。
エドワードは視線を外して、二杯目の紅茶を注いだ。
エドワードに転機が訪れたのは、それからすぐのことだった。 いつものようにマスタングの研究室を訪ねると、部屋からはアルフォンスの声がした。アルフォンスの方が先に来ていることはめったにない。聞こえた声が、興奮しているようでもあり、静かな落ち着きを持っているようでもあった。 エドワードは思わずドアを開けることをためらってしまった。
「……これが新しい言葉です。マスタング助教授がお忙しいことは分かっているんですけど、手持ちの辞書じゃ見当もつかなくて」 「構わないさ。で、何という言葉だって?」 何の話をしているんだろう。入ってもいいのだろうか? エドワードはさっさといつものようにドアを開けてしまえばよかったと思った。時間だっていつもくる時刻だ。ため息をつきかけた時、ひときわ強くアルフォンスの声が聞こえた。
「『シャンバラ』です。何かの名前のようなんですけれど。人か、神様か……場所か。助教授なら何か知っているのではないかと思って」
エドワードはびくりとした。知っている言葉だ。訊いたんだ。自分が。 何か嫌な感じがする。 ピリッとした感覚。絶対に裏切らない友人とでも思っていればいいと言われた感覚。唐突過ぎて、頭がついていかない。でも、これは何かの合図だ。そういう妙な確信がある。 気付いた時には、勢いよくドアを開けていた。
「私の記憶に間違いがなければ、それは確かチベット仏教に伝わる……」 マスタングが驚いた顔をして、こちらを見る。言葉が途切れる。その後を引き継ぐように言葉を紡ぐ。 「理想郷の名前だ。飢えも争いもない、場所」 アルフォンスがゆっくりと振り向く。瞳にはかすかな怯えがあり、ロイの机に一冊の本が開いてあるのが見えた。文字といくつかの図形がびっしりと書き込まれている。その側らにつやの消された鎖が付いた鍵が置いてあった。ドイツで一番最初に会った時を思い出す。
エドワードは沈黙した。勢いで割り込んだものの、これは失礼なことだったのではないかと気付いたし、アルフォンスも硬い表情を崩さなかった。 重い空気を破ったのはロイで、アルフォンスもしっかりとエドワードを向いた。 「何だ、話していなかったのかね。随分親しくしているようだからてっきり……」 「だって、エドには関係がないのに、巻き込んだりしたら……」 しゅんとうなだれたアルフォンスに、エドワードはその理由が分からなかった。
「彼ならいい手助けになってくれるのではないかね」 ロイの後押しで、アルフォンスは意を決したようにその古い本を手にした。
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