年が変わるまであと三日。
 日付が変わったら後二日だ。

 エドワードはコチコチと音を立てる時計に目をやった。伸びをして、また文字とにらめっこだ。
 アルフォンスから借りた日記は、研究者だった両親の物だと聞いた。アルフォンス自身からではない。マスタングがそれとなく教えてくれたのだ。
 『日記』というのは御幣があるかもしれない。確かに多くはアルフォンスについて記録されている。しかし、所々は研究書といっていい。自分が昔使っていた手帳のようなものだ。それも目立たないように、日記という体裁をとっている。

 戦火をくぐった代物は、若干汚れが目立つ。丸みを帯びた表紙の角が、長年使い込まれていたものだと物語っていた。そこに染み込まれているのは、アルフォンスの両親の想いと、その両親を失ったアルフォンス自身の悲しみなのだろう。
 だから、アルフォンスはこの日記帳について多くを語らない。

 そして何が書かれてあるのか、オレが解読した物を読む時、柔らかで思わず目をそらしてしまうような笑みを浮かべるのだ。





 シャンバラを征く者  夜





 欠伸を噛み殺す。
 冬季休業中なので講義はないのだが、まだキャンパスに通っている。明日、というか今日も出掛けるのなら、そろそろ寝ないとまずいだろう。

 日記帳をそっと閉じる。
 解読はあと少しで終わる。本当はもう少しやりたい。
 前半はシャンバラという理想郷についての一般的な意味や、伝承を集めた話。中盤はこちらでいう魔術との関係、魔術師から見た理想郷について。この辺りから、錬成陣によく似た図形や記号が増えてくる。
 そして、
今差し掛かったのはシャンバラは実在するか、人間がたどり着けるか。
 つまり、シャンバラへ行く方法を検証してみよう、とそこまでだ。


 ここでストップをかけたのは理由がある。
 一つ、何か嫌な予感がする。魔方陣と呼ばれる図形は、全くのデタラメというわけ
でもなさそうだと感じる。
 この世界にはパラレルワールドという考えがある。
 この世界とよく似た世界がいくつかあり、平行して存在する。それらは決して交わることがないが、何かの拍子に世界を行き来する通路が現れることがある。
 アルフォンスの両親はパラレルワールドの一つがシャンバラではないかと考えている。

 世界を行き来する通路というのは、おそらく『門』のことだ。
 ここまでおかしな陣形というより錬成陣に酷似しているものは、こちらの世界に来て初めて見る。いち研究者がここまで推測できるのだから、魔術師が本気で取りかかったらどうなるか分からない。錬金術師ならその確率は格段に高くなる。
 有り得ない、何てことは有り得ないのだ。

 睡眠を摂ろうとした理由はもう一つ。
 寝不足の頭で考えてはひらめくものもひらめかない。万が一解読を間違ったりすれば、その分時間を無駄にすることになる。ここで粘るよりも、一度頭を冷やすべきだと考えたのだ。
 三年も前だったら、徹夜してでも解読を進めただろう。それだけ興味をかき立てられるものだ。

 けれど、今は違う。
 それが成長というのなら、大人になるということは何と苦しいものなんだろうか。
 自分の思ったことを思った通り、溢れる感情をそのままに暴れまわっていた頃がずっと昔のようだ。
 戻りたいとは思わない。
 あの頃はアルは肉体を持っていなかったんだから。
 けれども、懐かしくて、熱い何かが胸を満たしていく。


 物思いにふけっていると、廊下で音がした。一瞬泥棒かと息を呑むが、すぐに思い出す。ここ一ヶ月仕事場に泊り込んでいた父親が、昨日今日と戻ってきていたのだ。
 振り向くと案の定、父親がそっとドアを開けるところだった。



 「……何しにきたんだよ」
 口をついて出るのは、悪態。
 「いや、まだ明かりが漏れていたから。昨日も遅かっただろう」
 「あんたな、ノックくらいしろよ。今寝るとこっ」
 エドワードが寝巻きに着替えている間、ホーエンハイムはその場を動かなかった。エドワードはその存在を無視していたが、やがて耐え切れずに視線を向ける。

 「何?」
 「……いや、その」
 視線を泳がせて、何とも歯切れの悪い様。エドワードはため息をついた。
 「クリスマスに同席したのは怒ってない。アルフォンスにプレゼントを渡したのも怒ってない。一昨日食器を片付けようとしてオレが気に入ってたカップを割ったことも怒ってない。昨日ロックベルさんとこで買ってきたアップルパイをあんたが何も考えずに黙って全部食べたのも怒ってないっ!」
 「怒ってるじゃないか」
 「怒ってないっ!! 怒ってないから、謝りになんか来なくていい。パイならまた買いに行けばいいし」
 エドワードは、父親が機嫌を損ねっぱなしの息子に何らかの謝罪をしにきたと思ったのだ。

 「いや、そうじゃなくてな」
 ホーエンハイムが気まずそうに頭を掻く。
 まだ何かあったかとエドワードは考えを巡らすが、特に思い当たることはない。
 「荷物を、だな……まとめておいてくれないか」

 何を言われたのか分からず呆然とする。どういう意味だ?
 「……な、に」
 「……少し深入りしすぎたようだ。私だけならば構わないのだが、お前まで巻き込むわけにはいかない」
 「どういうことだ!?」
 思うままに口にする。頭がついていかない。
 「研究結果の秘密保持のための口止めだ。私達は周りとの関わりが薄い。消しても表沙汰になりにくい分、やりやすい。お前もまだ死にたくはないだろう?」
 「っちょっと待ってくれよ! こっちの都合も聞かないでか? オレには今、やることがあるんだよ。あと少しなんだ、あと少しで何か掴めそうなんだ……」
 それに、アルフォンスにもあの日記帳の中身を教えてやれる。

 ホーエンハイムは小さく頷いた。
 「知っているよ。別に、今日明日にこの町を出ようというわけじゃない。とりあえず、新年はこの町で迎えよう。逃げるのは人の行き来が多くなる年明けを狙う」
 それにしたって、年が明けるまであと二日しかない。
 しかし父親の表情を見る限り、事態は深刻そうだと判断し、エドワードは口を閉ざした。
 「エドワード。今日も大学に行くのか?」
 ホーエンハイムが時計を見て言う。
 「そうだけど」
 時刻は二時を過ぎている。
 ホーエンハイムは来た時と同じように、そっと部屋を出て行く。
 「無茶は、するなよ」


 ドアが閉まり掛けた瞬間小さくだが、確かに聞こえたホーエンハイムの言葉に、エドワードはベッドに倒れ込んで枕に顔を押し付けた。

 「それはあんたのセリフじゃないんだよ」

 くぐもった声は震えを伴っていが、それがホーエンハイムの耳に届くことはなかった。
 エドワードは小さく身体を丸めて、ランプの明かりの中、少しだけ泣いた。





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