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「……バカだなぁ」 アルフォンスは自嘲した。 明かりのほとんどない地下室の冷たい床の上で転がっている破目になったのは彼女のせいには違いないが、一度彼女もまたかわいそうな人なのだと思ってしまうと、一方的に責めることは出来なかった。 彼女が何を欲しているかも、何が彼女を狂わせたのかも薄々知っている。それでもなお、養子になることを否と言わなかったのは自分なのだ。
夕食に招かれたくらいで喜んだ自分が滑稽だった。 彼女の微笑みに母を重ねた自分が滑稽だった。 やっと僕を見てくれるのだと期待した自分が滑稽だった。
あの全てが日記を手に入れるための演技、嘘だったとは。
シャンバラを征く者 捕
いつもはただっ広い広間で一人で食事をしていた。養母となった彼女は同じ時間に食事をすることがない。 アルフォンスは空いた空間がのしかかってくるような気がして、食事の時間があまり好きではなかった。 それでも毎度あてがわれる食事は申し分ないほど美味しいし、戦争の影響で物資が少ないとはいえ、自家栽培も行っているこの屋敷では新鮮な野菜が食べられた。コックに美味しいと伝えると、狼狽しつつ嬉しそうに食材の話をしてくれることもある。
メイド経由で彼女が夕食を一緒に食べたいと言っていることを聞いた時、アルフォンスは違和感を覚えるよりも先に快諾していた。素直に嬉しかったのだ。 クリスマスの数日後のことだった。
緊張した面持ちで現れたアルフォンスに、エッカルトは優しく微笑んだ。向かい合って座ると、たまにはこういうこともいいんじゃないかしらと言った。 アルフォンスはそうですねと頷いた。
エッカルトは聞き役に徹していた。 大学のこと、研究室のこと、友達のこと、まるで親が子供の話に耳を傾けるように時折相槌を打った。 アルフォンスはすっかり気を許していた。 だから勧められるままグラスを口にした。情けないことに、それに何かよからぬものが入っていたのだろうことに気付いたのは随分時間がたってからだった。
話が将来有望な助教授のことになり、エドワードのことになり、そしてエッカルトが日記について口にした。 もう一度見せてくれないかしら、と。 アルフォンスは何気なくを装って話題を変えようとしたが無駄だった。結局研究室に置き忘れたのだと嘘をついた。本当はエドワードが持っているのだが、彼に迷惑をかけることになるのではないかと危惧したのだ。
食事が終わり、アルフォンスが早くこの場から撤退した方がいいと判断して立ち上がった時だった。足がいうことを利かず、がたんと派手な音をたてて崩れ落ちた。その時に初めて食事に何か盛られたと気付いた。霞む視界でテーブルと見ると彼女のグラスの中は少しも減っていなかった。 世界が暗転する直前、彼女が頬に触れたのが分かった。 「あなたが悪いのよ。素直に渡してくれればこんなことはしないのに」
それからずっと、アルフォンスはこの地下室にいる。 日光もないので何日目なのかすら分からない。食事もないので、もう三日も経っているかもしれないし、もしかしたらまだ二日目に差し掛かったところかもしれない。 水は与えられているのですぐに死ぬことはないだろうが、このままだと最悪の可能性は否定できない。しかし目下の不平といえば縛られたままになった手首が痛むことくらいだった。
部屋からは一歩も出られない状況なので、もちろん大学へも行けない。 冬季休業中だから問題はないはずだったが、毎日のように顔を出していた研究室では不審に思うかもしれない。一言伝言でも伝えられればよかったのに、とアルフォンスは息を吐いた。
「あれ、アルフォンス今日も来てねぇの?」 エドワードは研究室に踏み込むなり言った。 マスタングは目も上げずに作業を続けている。そのままペンを持った手を少し振って疲れを取りながら応える。 「明日、明後日に年越しを控えていてはさすがに来ないんじゃないか。君が来ている方がおかしいのだよ」 「だって家にある本は読み終わってるし」 マスタングがうらやましいことだと呟いた瞬間、ホークアイが入室し、ロイは黙りこくった。
「じゃ、今日も書庫借りるから」 「ここでやっても構わないのに」 「あんたは早く論文完成させること。暖炉使うから大丈夫」 エドワードはマスタングとその監視役のホークアイを残して部屋を出た。
エドワードは書庫の扉を閉め、寄りかかった。 目を閉じ、そして深呼吸する。 今だけはマスタングという名の助教授のことも、そのお目付け役の美人な講師のことも、本来の持ち主である友人のことも頭の中から叩き出す。そうまでしなければいけない重要なことが記されている。 ミスは極力避けなければならない。
エドワードは書庫の中、扉一枚で区切られたこれまた小さな部屋の暖炉に火を起こし、部屋が暖まるのを待たずにカバンから日記とメモを取り出した。
マスタングがやっと休憩を許されたのは昼をとうに過ぎ、ちょうど正午と夕方の間くらいだった。 書庫は冷やりとするくらいで、個室に足を進めてやっと温もりが満ちていた。 エドワードはドアを開けたマスタングにも気付かず、小さな机の上の日記とメモを見つめていた。何かを書き込んでいるわけでもない。ただじっと凝視していた。
「エドワード」 肩を叩かれてやっとその存在に気付いたエドワードは、見ていてびっくりするほど慌ててメモと書き散らかした紙切れをかき集めて裏返した。 「っみ、見た?」 「どうかな」 「……っ性格悪ぃ!」 噛み付いたエドワードに、マスタングは軽く笑った。 「見る前に君が隠してしまったよ」 疑いつつも、エドワードはその言葉を信じることにして安堵した。
「そうだ。休憩にしないかと言いに来たんだ」 「リザさんからお許しもらったんだ?」 「彼女は軽食を持ってきてくれるらしい」 どうせ君も食べ忘れているだろうから。 そう言われて初めて昼食を取り損ねたことに気付いた。 「あー。腕が攣りそうだ。学生時代もこんなにペンを持ったことはないな」 マスタングが利き腕を伸ばす。
「タイピングだっけ? あのカタカタ打つやつ使えばいいじゃん」 「この大学関連の学会で発表するからルーマニア語なのだよ。綴りがややこしくて嫌いなんだ。打ち間違えると修正がきかないし……そういえば君だって使わないじゃないか。こんなに文字を書くのに」 裏返された膨大な量のメモに目を落とす。どれもこれもびっしりと文字が書かれているのが分かる。 「あの機械自体ほとんど使ったことないから、手書きの方が早いの。あんたと違って誰かに見せるもんでもないし」 エドワードも首を回したりして身体をほぐした。
ふと昨夜言われたことがよぎった。 年が明けたらこの町を出なければならない。ということはこの大学も辞めることになるのだ。 退学することは事前に話しておいた方がいいのだろうか。いくら深く関わらない方がいいと分かっていても、この容姿で接せられれば『もっと』と望んでしまう自分がいる。
口を開きかけるたエドワードの一瞬早く、マスタングが言う。 「今日の日差しで随分融けたな」 視線の先は窓の外。今日は朝から晴天で、昨日までに降り積もった雪も減っていた。エドワードが研究棟に来る途中も幾度となく足を取られかけたが、大通りはしっかり除雪されている。 「そう言えば、あんた毎日家に戻ってんの?」 その割には朝は必ずマスタングの方が早く研究室に来ている。 首を傾げたエドワードに、マスタングはまさかと笑った。 「ここ最近は泊り込みだよ。女性に夜道は危険だからと明るいうちにホークアイ講師を帰せば、自宅から確認の電話が入る。彼女は有能だかいささか厳しすぎる」 「あんたにはちょうどいーと思うよ」 エドワードはにやりと笑ってやった。
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