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天井の模様を数える。 自分が誰なのか忘れる。
今何をしているのか、何をされているのか掻き消してしまえ!
赤線レイディ
一人残された部屋。 ただ広いだけ、無駄な装飾品が並べられているだけの部屋。
ここがオレにあてがわれた部屋。 正確に言うと、この部屋に隣接している広くも狭くもない部屋がオレの本当の部屋。 まあ寝て、食べて、着替えるしかしないから大した家具もないけれど。せいぜいテーブルと椅子が一組、それにクローゼットが一つ。洗面台と風呂はこっちの大きな部屋にしかないから、こちらのを使う。
カーテンの隙間から日の光が漏れている。夜のネオンとは違う、強くて一色の光。まだ覚醒しきらない夢うつつの状態で、仰向いたまま首だけを傾ける。 いいなあ、見ているだけで温かい。 再び眠りに落ちそうになっていると、控えめなノックが聞こえた。返事はしない。というかしたくない。別に彼女が嫌いなわけじゃない。昨夜は散々だったから声がすっかり掠れてしまっているのだ。 彼女もそれを承知している。応答がなくとも、カチャリとドアが開いた音がした。そしてコツコツと近付いてくる足音。
「目が覚めていらっしゃったのですね」 顔を覗き込んできたのは短い黒髪に左目下の泣きぼくろを持つ、オレの世話を任されている女の人。 「ん、……ろす、さん」 悲しそうに微笑まれるとなぜだか急に泣きたくなってきて、でもそんなことをすればもっと困らせてしまうと分かっているから我慢した。代わりに力の入らない腕を伸ばす。 すぐに気付いてそっと握り返してくれる。とても柔らかくて、温かくて、母さんを思い出した。 しばらくそうしていた。
「お起きになりますか?」 無理だろうと思うが、頷いて身体を起こそうとした。 「っ、」 「エドワード様!」 案の定バランスを崩してベッドから落ちそうになった。彼女がそれを支えてくれる。何とか枕を背もたれに、上半身だけを起こした。彼女が動かなくていいと言う。 「何か食べられそうですか? それとも先に着替えますか」 吐き尽くして、胃が空っぽだった。とにかく何か食べないと身体がもたないと思った。 「……スープ、か何か」 分かりました、とてきぱきと動き出した彼女をオレはただ眺めていた。
一度部屋を出ると、洗面所で新しいタオルをお湯で絞ってきた。それでオレの顔を拭うと、今度は湯気の出ているポットを傾ける。僅かにスースーとしたミントの香りがする。ハーブのブレンドティだった。
彼女はオレが動かなければどこまでも世話をしてくれるので、頑張ってカップを持ち、少しずつ飲んだ。 そればまずかった。 すっかり体力が底をつき、ぐったりと腕を投げ出してまた枕を背もたれにする。元々食欲なんてない。
次に彼女は野菜の具が入ったスープをあてがってくれた。オレの様子に、彼女は食事を強制にした。そうでもしないと参ってしまうと分かっているからだ。 しなやかな指が銀色のスプーンを握り、スープをすくって口に流し込む。 塩で味付けされているらしいのに、味が全くしない。熱めの液体が喉を通っていくだけだ。次第に固形物が含まれるようになる。おそらくジャガイモ。噛み砕くまでもなく、形は崩れてなくなる。それを何とか飲み込んだ。
「お着替えを」 彼女が洋服を腕に抱えて困っていた。 オレは嫌だと首を振る。 「しかし、」 寝ているだけでも痛いのに、起き上がって着替えるなんて無理だ。 「お願い。勘弁して」 水分を取ったおかげで喉の掠れは少しよくなった。それでも、喋るだけの元気はない。
「それでは、お暴れになりませんよう」 彼女が胃を決したように注意した。最初オレは何を言っているのか分からなくて、間抜けに彼女を見上げていた。 彼女の手が伸びてきて、寝巻きのボタンを外し始めた。
彼女はいい。 不自然な痣があろうと、無意味な歯形があろうと眉一つ動かさない。それは最初からだった。
一番初めにオレの世話を任された人は少し年上の少女だった。彼女はオレの肌を目にするたびに息を呑み、気の毒そうな顔をした。当時オレはまだガキで、同情の目に晒されることに耐えられなかった。だから他の人を望んだ。それくらいの我侭は許された。 次に付いた人は男の人だった。客がもう一人増えただけだった。 彼は優しかったけれど、オレは毎回泣いていた。結局オレが告発する前に現場が見つかり、彼は捕まった。
そんなことを数回繰り返し、もうどうでもいいと諦めた。すると彼女が来た。 人生なんてそんなものだ。 大事なものはなくなってから気付くし、望むものは欲しがらなくなった途端に手に入る。
彼女はそれからずっとオレの世話係で、もう何年になるだろう。どんなに長く関係を持っていても敬語のままだし、距離は変わらないし、オレを利用しようともしない。 オレは彼女に絶対の信頼を置いている。彼女はオレを裏切らないし、例え裏切られたとしても、彼女なら許せると思う。
「久しぶりですね」 「うん。ごめん」 寝巻きを脱がせてもらって、うつ伏せになっていた。 着替えをしてもらうのは、昔はよくしてもらった。まだ十かそこらで、女の人に触れられることに慣れていなくて、恥ずかしくて力いっぱい抵抗したこともある。暴れるなと言ったのはそうした前科があるからだった。 まさか十五にもなって女性に着替えさせてもらう破目になるとは思わなかった。っていうかこの歳で客取ってること自体おかしいんだけど。世の中には物好きが多い。
彼女が用意していた薬を身体のあちこちに丁寧に塗りこんでいく。 「沁みますか?」 「死にそーなくらい」 そうですか、と彼女は言う。 手を止める様子は一瞬もなかった。オレも泣き叫ぶわけでもないし。痛いけれど、それだけだ。痛みには慣れている。
「ねえ、ロスさん」 「何ですか」
「死にたいんだけど」 「許可できません」
一眠りすると、またネオンが灯る。
END. 赤線=赤線区域(赤線地帯)。 →特殊飲食店とも。1946年から1957年まで売春が許可されていた店。場所のイメージが遊郭外だったので。
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