澄んだ青空が広がるリゼンブール。
 「ホークアイ大尉。それは何だね」
 「あら、准将。櫛とハサミですが、それが何か?」





 七年の苦闘と二年の患苦





 「アルー。どこだー? ったく。あ、ばっちゃん、アル見なかった?」
 バタバタとロックベル家に駆け込んで来たエドワードに、お茶を飲んでいたピナコが答える。
 「なんだい、やかましいね。アルなら多分部屋にいると思うよ」
 そうたしなめた後、廊下の方を指差す。
 「ありがとっ」
 息を切らしたまま、エドワードは奥に駆けていった。


 エドワードがこの世界に戻ってきてから数週間が過ぎた。
 政治の決定権は軍から議会へと移り、二年という歳月は全てを大きく変えた。
 エドワードは、『あちら』では思い通りに駆使できなかった義肢を『こちら』で再び機械鎧にした。もちろん新しい機械鎧もウィンリィ作だ。
 アルフォンスはイズミの再修業から帰ってくるとリゼンブールを拠点にエドワードを捜し始め、ウィンリィとピナコの要望でロックベル家の一室を自室として生活していた。


 「アル?」
 エドワードがノブをひねってドアを開ける。
 「あ、兄さん」
 アルフォンスは部屋のほぼ中心に立っていた。首だけ回してエドワードの姿を確認する。
 エドワードを捜すために集めた情報資料や錬金術の本、何時間もかじりついた机、何本目か分からない万年筆。几帳面な彼にしては珍しく少々乱雑とした部屋で、アルフォンスは立ち尽くしていた。
 エドワードが一歩を踏み出して、部屋に入る。
 「ここ、入るの初めてだな」
 エドワードが先程までとはうって変わった表情で呟く。アルフォンスの隣りに立ち、同じように部屋を眺める。


  リゼンブールにきてから随分時間が経ったが、その間エドワードはこの部屋には近付かなかった。
 弟が自分を捜すのに必死だったという話を聞いている。再会の瞬間の喜びようにも驚いた。
 いきなり訳の分からない状況に置き去りにされて、それでも自分を捜すために、それこそ昔の自分のように死に物狂いで努力した、その跡を直視することに抵抗があった。気後れというのかもしれない。
 特に足を踏み入れる機会も必要もなかったので、そのままこの部屋を覗いたことはなかった。


 初めて見渡して、エドワードは目を細めた。
 「兄さん」
 「ん?」
 アルフォンスは視線を前に向けたまま言う。エドワードもアルフォンスに顔を向けることなく答える。
 「……終わったんだね」
 「ああ、新しい始まりだ」
 「なんだか……こうしてみると感慨深いっていうか」
 「アル、お前いくつだよ。そういう言葉はもっと生きてから使うもんだ」
 しみじみと言うアルフォンスにエドワードがつっこむ。

 「頑張ったな」
 エドワードがアルフォンスの頭をぐしゃぐしゃとかき回すように撫でる。途端にアルフォンスが痛いよと笑い出したので、エドワードもつられて微笑んだ。


 「あ、ウィンリィとホークアイ大尉が準備できたって」
 アルフォンスを捜していた理由を思い出して言う。
 「じゃ、行こう」
 アルフォンスはくるりと向きを変え、エドワードの腕を取って庭に向かった。





 「お願いします」
 エドワードとアルフォンスは椅子に座っていた。二人の後ろにはそれぞれウィンリィとリザが立っている。彼女達が手にしているものを見れば、これから何をしようとしているのかは一目瞭然だった。

 「おや、鋼の、アルフォンス。切ってしまうのか?」
 揃ってポニーテールを解き、タオルを肩に掛けた二人を見て、ロイが言った。
 木陰から動こうとしない無精さは変わらないが、読んでいた本を置いて物珍しげに眺める。
 「もったいない。三つ編みにもしないのか」
 「ボクはもう伸ばす必要がないので」
 そうアルフォンスが答えれば、「オレだってそうだよ」とエドワードが言う。


 リザが梳かす髪が一房流れてきて、アルフォンスはそれを見つめる。
 「兄さん。ボク、兄さんが髪伸ばしてたってマスタングさんに聞いてから伸ばし始めたんだ。少しでも兄さんのことが知りたくて」
 「じゃあ、赤いコートも両手を合わせる錬成法も?」
 「そう、兄さんみたいにって。ボクはただ手を合わせても錬成できないからさ、マスタングさんの手袋見て思いついたんだ。使用に随分制限がかかっちゃうけど」
 アルフォンスが笑う。エドワードもウィンリィに髪を梳かしてもらいながら苦笑する。
 「オレが伸ばし始めたのは邪魔だったからだな。機械鎧にして一年はリハビリばっかで髪に構ってる暇なかったから。そのうち三つ編みにして、いつも自分のしたことを忘れないようにって。『あっち』じゃ絶対帰るんだって願掛けで括ってた」

 「じゃ、切るわよ」
 ウィンリィがハサミを構える。シャキン、と小気味良い音と共に髪が切り落とされる。
 「『昔』みたいに頼むよ」
 エドワードが言った。



 しばらくして「いいわよ」と声を掛けられ目を開ける。
 エドワードとアルフォンスは顔を見合わせて満足げに微笑んだ。
 「サンキュ」
 「リザさん、ありがとうございます」
 家の中から様子を見ていたのだろう。ちょうどよくピナコが出て来た。
 「おやまあ。すっかり『元』通りだねぇ」
 咥えていたキセルを口から離してピナコが言う。

 エドワードは少し長めの前髪を指でつまんでみていた。
 「二人ともよく似合うよ」
 はにかみながら「どうですか」と尋ねたアルフォンスに、ロイは言った。










 太陽が傾き始め、ウィンリィとリザが夕食の準備に取り掛かる。二人はすっかり仲良しで、エドワードとアルフォンス、ロイは置いてけぼりを食っている。

 「マスタングさん、一緒に来てもらえませんか?」
 中央では絶対にお目にかかれない雄大な景色に、ロイはまだ庭にいた。そこにアルフォンスが駆けて来た。
 アルフォンスの後ろに視線を移すと、エドワードが小さな花束を抱えて立っていた。
 「いいのか? 墓参りに私もついていって」
 ぜひ、とアルフォンスはロイの袖口を取った。

 「……たい、じゃなかった。准将」
 丘に向かってゆっくりと歩いていく。兄弟はほとんど並んでいて、その少し後ろをロイが追いかける。
 「何だね」
 エドワードは足を動かし続けながら一時(いっとき)振り返ると、また前を向いてしまう。
 「……ここに、母さんの物は何一つないんだ。遺品みたいなのは一緒に埋めたのもあるけど、骨……とかさ」
 「兄さん、」
 アルフォンスは罪を懺悔するようにか細く言うエドワードに何か言おうとしたが、それが形になることはなかった。
 そう、母の遺骨がないことは知っているが、アルフォンスには記憶がない。
 ホムンクルスとの戦いも、何もかも覚えているはずがなかった。
 それでもなにかしら感じ取ったのか、ひたすら前を向いて歩を進める兄の手を握る。一瞬びくりとし、それに気づかないかのようにアルフォンスが力を込めるとエドワードもまた、握り返した。その温かい、手で。

 「オレ達、母さんに報告しようと思って。オレ、帰ってきてからまだ挨拶にきてないんだ。言いたいことたくさんあるんだけど、挫けそうだから……だからあんた立会人な」
 証人、かな? とエドワードは左手に花束を抱えたまま、歩いていく。その後ろ姿には跳ねる三つ編みもなく、見知ったものとは程遠い。
 「マスタングさん。お願いします」
 こちらもまた短くなった頭で、ようやく見慣れてきたと思っていたポニーテールはもはや跡形もない。
 「私でよければ」

 ゆっくりと、ついてゆく。










 後二、三年で約十年の雨風に晒されてきた白い石は、何もない、と表現されるこのリゼンブールを見渡す丘に違和感なく溶け込んでいる。
 白い小さな花弁の花を供えた兄弟はしばらく立ち尽くして、そして謝った。
 「ごめんなさい」
 「ごめんなさい」
 震えるようではなかったが、いつもの会話よりは細く、どちらの声にもそれぞれに滲み出るものがあった。
 ロイはそれを数歩下がった位置で見守る。


 一息吸ってから、先に口を開いたのはやはりというか、兄であるエドワードの方だった。
 「母さん、もう大丈夫です。……後片付けも、ちゃんとしました」
 「ボク、兄さんを見つけました。兄さんは……ちゃんと帰ってきました」
 兄弟の語り掛けをロイはただじっと聞いている。

 「もう馬鹿なまねはしません。自分の命を代価にしても……残された方が、置いていかれた方が、こんなにつらいって分かってなかった」
 「兄さんが自分の全てを代価にしてボクを助けてくれたって聞いた時、すごく嬉しかったけど……でも、一人はすごく怖かった」
 「オレ達は、もう……自分を犠牲にして錬成することはしません」
 「ボク達は自分を大事にして、人の役に立つ錬金術師になります」
 「それが、今までオレ達を助けてくれた……そして犠牲になった人達へできる唯一のことだと思うから」

  「「母さん、ありがとう。感謝しています」」





 その決意にロイはただ耳を澄ましていた。まだ二十年も生きていない子供が長い旅路にピリオドを打ち、そしてまた新しいスタートを切る。
 胸につかえていたものが流れ消えていくような、清々しさが胸を満たす。これで彼らへの罪は全て断罪されたのだ。

 エドワードはアルフォンスを促してくるりと墓に背を向ける。ロイが珍しく微笑んで立っている。
 エドワードはアルフォンスに握られている手に、急に力が力が込められたことに気付く。
 ロイがポケットに突っ込んでいた手を差し出す。サラマンダーが描かれた手袋もない、その素手は自分達を何度も引っ張り上げてくれた手。

  「帰ろう」

 その一言が最後の堰を壊した。心地良い、低い優しい声だった。
 アルフォンスがふいに駆け出して、ロイの腕にすがりついた。今の今まで十三歳の子供らしからぬ態度で母親に語りかけていたというのに、その腕を両手で抱き、顔を埋めた時にはしゃくりあげていた。

 「……あなた、のおかげです。ボク、ボク……何度も、何度もっ、だめかもしれないって、思いました。……兄さんはいないし、周りはよく分からないことだらけだしっ、……でも、あなたは諦めるなって言ってくれた。砕けてしまいそうだったボクに気付いて……励ましてくれた。……兄さんは、帰ってきました。……また一緒に暮らせる。兄さんと一緒に暮らせる。……っ。あなたの、おかげです」
 突然にわんわんと泣き出したアルフォンスに数瞬どきまぎしながらも、ロイは
 その小さな身体を抱きとめて、頭を優しく撫でる。

 二年という月日は長すぎたのだ。それにこの少年は耐えた。たった一つの望みを捨てず、諦めず。
 真っ直ぐ前だけを見つめて没頭する様子を見かけては、泣き言も言わずに振り返らず、躊躇もない態度を見せつけられては、かつての最年少国家錬金術師を思い出した。
 全ては兄を見つけるため。捜して、連れ帰る。ただそれだけを望んで。

 ロイは果ての見えない迷宮に迷い込み、そして攻略したもう一人の少年、いや、もはや青年へと成長したエドワードへ目を向けた。

 「……オレだって長かったさ。……錬金術は使えないし、知ってる顔なのに全然違う人達がいるし、人はたくさん死ぬし! ……夢なんじゃないか、だったら早く覚めろって。……二年間科学技術学んで、いろいろ調べて、それでも糸口が見つからなかった。もうだめかもって諦めかけてた。……でもっ」
 エドワードはうつむいて、両手を握り締めた。表情を隠すように、前よりは短くなった前髪が顔にかかる。

 「……エドワード」
 ロイがアルフォンスを片手に抱いたまま、エドワードに手を伸ばす。
 エドワードらしく、自分からロイの腕にしがみつくことはなかった。たまりかねて、ロイはエドワードの頬を伝う涙を拭ってから強引に引き寄せた。

 「でもっ……諦めたくなかった」

 ロイの胸に顔を押し付ける形になったために、絞り出した声はくぐもって聞こえた。

 「帰りたかったんだ。……アルにもあんたにも、もう一度会いたかったんだよ」





 決して泣くことをしなかった兄と決して泣くことができなかった弟の涙は、顔を埋めたシャツに染み込んだ。





END.
落書