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起こしに来ると言っていた時刻まで一刻の猶予もない。
A
WEEK 07 ――長い帰り道を果てしなく感じて 坂道と橋の上ではくらりと目まいがした。 銀色 夏生 『あの空は夏の中』より引用
寝ぼけ眼で見た時計の針は7:56を差していた。
疲れているだろう自分を気遣ってか、ぎりぎり食堂が開いている時間帯までに朝食を食べられるようにと、8:00に迎えに来ると言っていた。 ベッドから文字通り飛び起きて、部屋の隅に備え付けられている蛇口を捻って水を出す。乱暴に顔を洗って、時計を確かめる。 7:58 迂闊だった。 昨夜は早めに寝たので、起きられないとは思ってもみなかった。 やはり疲れていたのだと、自分でも思う。
とりあえず、早く着替えないと。 憎々しげに自分に舌打ちし、トランクからランニングシャツの替えを引っ張り出す。 軍人は時間には正確だ。 8:00と言ったら、その通りに来てしまうだろう。
東方司令部の誰もいない仮眠室で、しきりにドアを気にしながら着替える子供がいた。
昨日はラッキだったなーと無機質な廊下を歩きながらハボックは考えた。 じゃんけんで負けたために外回りをする羽目になったのだが、終わってみればそれが一番楽だったように思う。 いくら戦略家のブレダでも、大佐のツケがあそこまですさまじいものだとどうして予測できただろう。 ただし、昨日はラッキーで今日はアンラッキーというのは確定済みだ。
人生とは上手くできている。いいことがあれば、それと同じくらい悪いことが起こる。運命とはプラマイゼロで、『ゼロの法則』とか何とか。 胡散くせーとは思うが、今日に限っては当てはまる。 護衛っつったってなー。 ぼやいてはみるが、どうにもならない。
そうこうしているうちに、仮眠室に着いてしまった。比較的周りが静かなので、室内の音が洩れていた。 ばたばたと慌ただしい。
はて。寝坊でもしたのだろうか? 随分疲れていたようだから、それも仕方ないと思う。昨夜の様子を見れば、憎たらしい生意気なガキにしか見えなかったが、ガキなんだから子供という点に違いはない。 そんなに慌てなくてもいいのに、とドアノブを捻って押した。
金色を見た気がした。 黒も見えた気がした。 他にも色を見た気がした。 一瞬だったから、何も見えなかったけど。
バタンッ!! とものすごい音がして、それが何の音で、自分がどういう状態なのか把握するのに数秒の時間が必要だった。 俺はノブを捻った。……うん。 ドアを開けようとした。少しは開いた。……うん。 それで、と目の前のドアを見る。 ドアは固く閉じていた。……あれ? もしかして締め出された?
「……たいしょー?」 もう一度ドアを開けようとしたけど、びくともしなかった。 仮眠室に内側からの鍵はなかったはずだ。 どうしたのかと少しばかり焦って力をかけると、少しだけ開いたドアは反動のようにまた閉まった。 エドワードが内側から押さえている理由が分からない。
「……大将!? 何やってんスか」 「ちょっと待て! 開けんな」 ドアの板一枚を隔てて昨夜とはうって変わって、余裕のない声がした。 棒読みでも、落ち着いた声でもない。 「一体……」 「着替えてんの! 一分だけそこ開けないで」
着替え……。ハボックは噴き出しそうになって、ドアに背を預けた。 やはり十二の子供だと実感すると、昨夜の大人びた態度は中尉の言った通りなのかも知れない。 それが妙におかしくて、たいしょーのパンツ姿見たって興奮しませんからーとからかってみれば、中からうるさいっと言われてしまった。 思ったよりもアンラッキーではないかもしれない。
面倒を見させられた幼子達とどこが違う? 見知らぬ土地、見知らぬ大人に囲まれて、虚勢を張っているだけだ。 そう自分を納得させた。 金色の瞳に映った影は何かの見間違いだったのだと決め付けた。十二の子供があんな目をするわけがない。絶望を覗き込んだような目を持つはずがない。 自分がその目を見たのは、前線にいながら生き残った人間くらいだ。
程なくして部屋から出てきたエドワードは、昨日と同じように髪を三つ編みにして、黒のジャケットに赤いコートを羽織っていた。 昨日大佐に渡された地図をもう覚えているのか、すたすたと行ってしまう。 慌てて後を追う。 「大将。飯の前に執務室!」 忘れかけていた言伝を思い出す。 エドワードが突き当たりの廊下を執務室の方向に曲がる。 一瞬姿が見えなくなって、小走りになる。
「っうおっと」 角を曲がったところで何かにぶつかりそうになった。 エドワードが背を向けたまま立ち止まっていた。 待っててくれた、とか? ありえないだろう仮説を打ち捨てる。
「どうした? 大将」 エドワードがゆっくりと振り返る。綺麗な色の前髪越しに、鋭い眼光が突きつけられた。 射抜くような視線に半歩後退してしまう。 「………」 「どした?」 じーっと睨みつけるように眺めた後、エドワードはふいに視線をそらした。 「……何でもない」 安堵したように小さく息を吐くと、エドワードは再び歩き出した。
……何でもないわけあるか! ツッコミそうになったハボックは、押し留めて後を付いて行く。 何か気に触ることでもしただろうか? と考えいる時点で、さっきのパンツ発言はきれいさっぱり忘れていた。
「今日は市内でも観光したまえ。護衛にハボックをつける。私はこれから出掛けるのでな。帰って来るまで誰一人問題を起こすなよ。分かったな! ……では行ってくる」 徹夜明けで皆屍状態で机に突っ伏している中、ロイは言うだけ言った。
エドワードがよれよれになった大人達をじっくりと眺め渡していると、副官が部屋に入ってきた。 「大佐、時間です。あら、おはよう、エドワード君。朝食はちゃんと摂りなさいね」 急いでください。 分かっているよ。ああどうしてこう忙しいんだ。ゆっくり茶を飲む暇も… バタンッ
我が道を行く、で姿を消した上司に、エドワードとハボックは顔を見合わせた。
「市内の案内……」 「いい。地図見たし」 「じゃ、何か見たいものとか……」 「興味ない」 「じゃ、どっか行きたいとことか……」 「図書館。今向かってる」 朝食を食べ終えたエドワードは、司令部を出て大通りを歩いていた。 ハボックはその後に付いていたが、行き先を聞いて、げ、とうめいた。
「あそこまで歩くのかよ。車出しゃよかったな」 「仕事、遅くまでやってたんだろ。……居眠り運転されたら困るし」 「う……一言多いんだよ! てめえは……って、お?」 ハボックがふいに目を見開いた。危なくくわえていたタバコを落とすところだった。 「何?」 エドワードが首を傾げる。 ハボックが三つ編みが跳ねる頭をポンポンとなでた。ごく自然に。エドワード自身も違和感を感じないくらいに。
「やっぱ子供は笑ってないとな」
昼食をはさんで一日中図書館にこもっていた。 一晩ぐっすりと眠ったおかげで周りの人間にとっては厄介なほどの集中力は復活し、ハボックは昼食に連れ出すのに苦心した。
少なからず興奮した様子で分厚い古ぼけた本を取り出してきては無心に読んでいる姿を、ハボックは側らで見ていた。やたらと難しそうな本は明らかに専門書で、子供どころか普通の大人も読めないものだろう。 それを見て、やはり錬金術師なのだと実感した。
「彼、大丈夫でしょうか?」 「同じ時を過ごせば慣れるものだろう? 本当はフュリーに付いてもらおうと思っていたのだが……」 「だが……?」 「確実な方を」
帰路を走行しながら、副官が口にしたのはエドワードのことだった。 今日はちょっとした視察だったので、誰かに夕食に誘われることもなく、夕方という早い時間までに終わった。 ロイはエドワードの護衛を物静かなフュリーに任せようと考えていたのだが、子供の扱いに慣れているらしいハボックに決めた。 別の視点で考えればエドワードの行動を止められそうな、というのが本当だとも言えるけれども。
「ところで、どの辺りまで話したのですか?」 優秀な副官は表情を変えることもなく、ハンドルを切る。 「……調査書を数枚だな。家族構成やリゼンブールについても書いてあったと思うが」 ロイとリザは一年前にその現場を見ているので、おおよそのことは知っている。 しかしハボック達がエドワードについて知っているのはその紙切れに書かれているほんの少しのことだけだった。 「では、機械鎧のことは……」 「彼が言わないのだ。私が言うことではないだろう」 わずかに沈んだ声音に、リザが尋ねる。 「ああ。……今朝ハボックがね。着替える時に締め出されたそうだ」 奇異の目にさらされたくないのか……。
「機械鎧は万能ではありません」 リザの心配を聞き流し、ロイは空の様子をうかがった。 雨が、降りそうだな……。 空は晴れていたが、ごく微量の湿り気を帯びた風が黒髪をもてあそんだ。
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