|
「兄さん、やっぱりこれ忘れてったんだ」 アルフォンスがテーブルに置かれた小瓶を見る。
暗い色のガラス瓶の中には錠剤が入っている。ラベルが貼られていないが、この家の中で使うのは特定の人物だけなので、誰かが間違って口にすることはなかった。
A
WEEK 11 ――ハッとしたこと おどろいた記憶 ひとつずつ すこしずつ 何かがわかる 銀色夏生 『バイバイ またね』より引用
「あのバカ! イーストシティ(あっち)も雨降ってるって。だから忘れるなって何度も言ったのに」 ウィンリィが受話器を置きながら言った。
小瓶の中身は鎮痛剤。エドワードの機械鎧手術後の痛みを抑えるための物だった。普段の生活に支障はないが、気圧の変化などで痛むことがある。 しかも、エドワードは手術を受けてまだ一年しか経っていない。
エドワードが国家錬金術師試験を受験することになって、アルフォンスはロックベル家でお世話になっていた。エドワードが使っていた部屋が空の内に掃除でもしようとアルフォンスとウィンリィが片付けていると、この小瓶がベッドの下に転がっていた。 ラベルがなかったので、所有者は明らかだった。すぐに気付いて、いてもたってもいられなくて、東方司令部に電話をかけたのだ。
「大丈夫かな、兄さん」 アルフォンスが呟いた。 その時、キィと扉が開いた。 「エドは何だって?」 ピナコがキセルの煙を燻(くゆ)らせながら入ってきた。 「あっちも雨だって。……まだそんなに酷くないって言ってたけど」 「まだ一年しか経っていないからね。……まあ、走り回ったり暴れたりしなけりゃ問題ないだろ。いつも使っている薬の名前も教えといたし」 そう言って、ピナコは雫が窓にぶつかるのを眺めた。
これで帰れる、とロイは安堵に深く息を吐き出した。時計の針は十時を回った。 ――家に帰っても、寝る時間しかないな。 部屋にはロイとリザしかいない。エドワードはすでにファルマン、フュリーと共に寮に戻ってしまっていた。 「助かった。遅くまですまないな」 「いえ、これが私の仕事ですから」 リザはわずかに微笑んだ。
「マスタング大佐、エドワード君のことで一つお聞きしたいのですが」 珍しいリザの言葉に、帰り支度を始めようとしていたロイは手を止めた。また、質問がエドワードについてだったことにも驚いた。 「私が答えられることならば」 「初日のことです。大佐はなぜエドワード君が手に怪我をしていたと気付いたのですか?」 結果的にハボックに連れられて来て、初めて司令部のメンバーと顔を合わせた時のことだ。頬を切られたと説明されたのに、ロイは左手を出せと言った。 そして確かに左手は派手に怪我をしていた。 エドワードにそんな素振りは一切なかったので、リザも驚き、疑問に思っていたのだった。
「ああ、簡単なことだよ」 ロイは椅子に腰掛け直して、リザはロイの示すことが理解できなくて言葉の先を待つ。 「彼がトランクを持つ時は必ず左手なのだよ。それがただの癖なのか、機械鎧を装備して間がないからなのかは分からないがね。まあ、神経が接続しているからと言って生身と全く同じように繊細に動かせるわけではないらしいし、機械鎧自体の耐久性の問題もあるからおそらく後者だろう」 「あの日は……右手?」 「そう、だから左手ではトランクを持ち上げられないことになっているのではないか、とね」 ロイの洞察眼に、リザも感嘆する。
「大したことじゃない。気になったから確かめただけで、たまたま推測が当たったにすぎないよ」
エドワードが話題に上がって、ロイが思い出したように言った。 「ところで、昼間彼の態度が急に軟化し出したのはなぜだろう。今まで自分のことなど話そうともしなかったのに」 こればかりは考えても何の推論も立てられなかった。態度の変化というのは大きいが、エドワードに関してヒントとなる事柄が圧倒的に少ないのが原因だ。
結局あの一言だけで、エドワードは再び沈黙してしまった。しかし、今までの態度を考えれば、随分と距離が縮まったような気がする。 ロイに対しては頑(かたく)なな態度も、ハボックやフュリー達には時折笑顔を見せるようにもなった。三日でこのくらいならば、完全に警戒を解くのも近いと見える。 子供は順応性が高い。イーストシティ滞在が約束されている一週間には大きな意味がある。
「あの子は賢いですね」 答えを知っているようなリザに、今度はロイが「ん?」と首をめぐらせて副官の姿を視界に収める。 リザは手に持っていたファイルを戸棚にしまいながら、昨夜エドワードと少し話をしたのだと言った。
帰り際に怪我をした手の具合を尋ね忘れたことに気付いて、エドワードにあてがわれた寮の一室をノックした。 外は暗かったが、まだそれほど遅い時間でもなかった。案の定、エドワードは読んでいたのだろう、古ぼけた本を片手にドアを開けた。ほっとした様子を見せて、どうぞと中へ招いた。 何か話があるのだと悟ったエドワードは表情を固くした。それをリザは微笑んで否定した。
「もう慣れたかしら、なんて訊くのはおかしいわね。何か困ったことはない?」 リザが怪我の具合が気になったのだと言い、エドワードに左手を出すように促すと、素直に手袋を外して差し出した。頬は皮一枚切られただけだったようで、そちらはもう治りかけていた。 「……特には、何も」 傷付いていた手の甲はすでに瘡(かさ)になっていて、血が滲み出すようなこともない。鬱血した痕は残るが、二、三日もすればやがて薄くなってくるだろう。
「動かしてみて。痛みはない?」 「平気。……手当て、ありがと」 リザが目線を合わせると、エドワードはわずかに頬を紅潮させて言った。そんな表情は見たことがなかったので、リザは驚いた。そして訊いた。 「みんなの前でもそういう顔をしていればいいのに。……会って間もないのは分かるわ。でもね、私達ってそんなに信用ないのかしら?」 残念そうな声に、エドワードが目を丸くする。そしてすぐに目を伏せた。 「……そうじゃ、ないけど」 「厳しいことかもしれない。でも、いくら軍が嫌いでも軍属になる覚悟があるのなら、嫌ってばかりいるのは得にはならない。……あなたが踏み込もうとしているのはそういう世界よ」
「…………うん」 そう答えるエドワードは確かに十二歳の少年で、リザは優しく包帯を巻き直す。 「みんなね、あなたに対してどう接していいのか分からなくて困っているのよ。マスタング大佐が推挙したのがどんな子なのか気になってしょうがないの」 リザが苦笑して、エドワードは怪訝に眉を寄せる。 「みんな信頼できる人達よ。少しずつでいいの、エドワード君のことをもっと教えてちょうだい」
エドワードは小さく頷いた。
どうやらエドワードはリザに逆らえないところがあるらしい。 自分のことを棚に上げて、ロイは昼間の態度にも「なるほど」と納得した。
「合格となれば、軍属の身になります。それだけのリスクを負うのですから、私達が少しでも手を貸すことが筋だと思いましたので」 戸惑っているのはエドワードも同じだった。だから、『仲間』なのだという意識を共有するきっかけを作ってあげることくらいは当然だと思っていた。 リザは理由のない肩入れはしないし――もちろん理由があっても――、付き従う立場として情を優先させることもしない。しかし、義務的な感じは全くなかった。
「感謝する」 ロイは満足げに一つ頷き、帰宅するべく椅子から腰を上げた。
next |