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「……宵風」 部屋の中で呟きが漏れた。
誓約する
関が駆け込んできた時、一体何事だろうと思った。
帷は壬晴に彼女についての大した説明もしていなかったし、秘術の使い方、在り様云々で場の雰囲気はすっかり冷たく固まっていた。
はじめ、彼女の言っていることは二人とも分からなくて、けれども関が「黒い服の男の子が」と言ったところで壬晴は弾かれるように彼女を押し退けて家を飛び出した。 帷は壬晴の後を追い、関は背負っていた大きなリュックを玄関先に下ろすと『彼』を迎え入れるための準備に家の中へ駆けた。
地面に倒れたままピクリとも動かない宵風に、壬晴は焦った。呼吸をしていることを確認して、鼻から流れていた血を袖でぬぐった。呼びかけても反応はない。 運ぼうと思っても、壬晴の体格では長身の宵風を背負うことは難しかった。 すぐに帷が追いついた。帷は一瞬躊躇したが、壬晴を見て自分のテリトリーへ入れることを許した。抱き上げて、家まで走る。 壬晴が何度も名を呼んだ。
壬晴はいまだ目を覚まさない宵風のそばから離れようとしなかった。そして、この部屋に誰も入れようとしなかった。特に帷は。 熱もなく、怪我をしているわけでもない。けれども、宵風の体温は冷たいままだった。壬晴は助けると決めた相手が何かしらの不調を抱えていることを知っていた。何となく、直感的なものだったのかもしれない。
気羅という術は命を削るものだ。そう教えられた。 それがどういう意味なのかよく分かっていなかった。単に寿命が縮まって早死にするとか、限度がきたら糸が切れたように死ぬとか、そういう瞬間的な死をイメージしていた。 こんな……じわじわと死に包まれていくなんて。
壬晴は手袋を外した宵風の手を見た。黒ずんで、とても人の肌とは思えない色。腐りかけた指の爪がいくつか剥がれ落ちていた。 宵風の時間がないのは明白だった。壬晴は語りかける。内奥に、森羅万象に。宵風を助けたい。森羅万象ならそれができるはず。 けれども、森羅万象の彼女は何も答えない。まるでいないかのように沈黙したままだ。 壬晴は一晩宵風の手を握って眠った。
明くる朝やっと目を覚ました宵風は、自分の置かれている状況に驚くよりも壬晴との再会を喜んでいた。もちろん宵風はそんな素振りを一切見せなかったが、壬晴はそんな気がした。 相変わらず帷も関も同席させず、部屋に入ることも許されない二人は、ささやきが聞こえる隣室で聞き耳を立てることになった。帳がそれを甘んじて承諾したのは、壬晴が森羅万象を使える時期ではないという確信があったからだ。 気羅使いのために森羅万象を使うと宣言したからといって、今すぐに行使できるはずがない。壬晴には過去の記憶も精神的強さもまだまだ欠けている。
起き上がろうとした宵風を壬晴は布団に押し戻し、笑みを見せた。壬晴は何かを喋ったが、宵風はそれを途切れ途切れにしか聞き取れなかった。それを不審に思った壬晴は宵風の耳元でささやいた。 宵風は寿命が迫っているから五感が鈍くなっているのだと説明した。 さらりとした言葉で、宵風は明日の天気の話をするような口調だったが、壬晴は酷く打ちのめされた表情をした。さすがに宵風が驚いて手を伸ばしかけた。途中で止めたのは手袋を外されていることに気付いたからだ。だからゆっくりと手を下ろす。
壬晴が流した涙の意味を宵風は分からなかった。ただ静かに瞳から溢れ、落下していく雫を見上げる。 <
壬晴にもう一度会わなくちゃとどこか強迫めいた宵風の願望は達成された。後は何とか自分が死ぬ前に森羅万象を使って消してもらうことだけ。
僕を消して。僕の存在を消して。最初から無かったものにして。
宵風が掠れた声で言うと、壬晴は緩く首を振る。ほとんど音の聞き取れない中で、壬晴の口が『嫌だ』と動くのが霞んで見えた。
なぜと訊く前に、壬晴が肩口に顔を埋めた。宵風の頭をそっと抱き込んで、ささやく。 「俺が助けるから。……宵風のために森羅万象を使うから」
だから死なないで。俺が宵風のそばに行くから。お願いだから死なないで。
耳元の呟きは宵風にしっかり届き、壬晴の流した塩分を含んだ水が頬を濡らしていく感覚を感じられることが何だかとても心地良くて、宵風は再び目を閉じた。
END. |